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1に監視、2に密告…韓国戒厳令支えたスローガン いつでもどこでも見られている閉塞感満載のリアル

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1979年10月、側近で中央情報部長だった金載圭(キム・ジェギュ)に射殺された、韓国の朴正熙(パク・チョンヒ)大統領の国葬の様子。権威主義体制を強力に敷いた朴大統領が亡くなったが、クーデターでその後を継いだ全斗煥(チョン・ドゥファン)も、権威主義的な強権政治を行った(写真・Alain MINGAM/Gamma-Rapho via Getty Images)

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2024年12月3日、戒厳令を布告した韓国の尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領が引き起こした政治的混乱は、いまでも続いている。今回の戒厳令騒動は、かつて韓国が経験した1970〜1980年代の戒厳令から比べれば、戒厳令とは呼べないほどのお粗末ぶりだった。では、かつての韓国の戒厳令下の生活はどのようなものだったのか。
朝鮮半島の近・現代史が専門で、1973年から1981年まで留学生として韓国に滞在した元山梨学院大学教授の宮塚利雄氏は、今回の戒厳令騒動を「お話にならない」と評価する。では、かつての戒厳令はどのようなものだったのか。当時の社会に存在したポスターやチラシなどの貴重な資料を所有している宮塚教授が、その一部を紹介しながら、戒厳令当時の韓国社会のリアルを説明する。

――宮塚先生が韓国で生活されていたときは、朴正熙(パク・チョンヒ)、全斗煥(チョン・ドゥファン)が指導者だったときに当たりますね。

そうです。戒厳令下の韓国政治・社会がどういうものだったかを紹介する前に、まずは韓国がどのような状況だったか、当時を振り返ったほうが理解が進むかもしれません。

私の留学生活は1973年5月からです。その前にも一度、韓国を観光で訪問したことがあります。

韓国で北朝鮮という圧力が強かった時代

朴正熙は1961年の「5.16軍事クーデター」を起こして「軍事革命委員会」の副議長となり、非常戒厳令を発令します。これは後に「国家再建最高会議」と改称され、朴正熙はこの議長となり、そして1962年に大統領権限代行となります。1963年12月に大韓民国大統領になり、1967年に再選されます。

クーデター直後に「国家再建非常措置法」を制定して軍事政権の基盤固めを行います。この法律は「反国家的・反民族的不正行為、反革命行為」を行った者を処罰できるという根拠になりました。1965年には日本と韓国が国交正常化を行い、韓国における日本の存在感が増すことになります。

――1968年に朴正熙の肝を冷やす大事件がありました。

青瓦台(大統領府)襲撃未遂事件です。北朝鮮の武装工作員が朴正熙の暗殺を狙って大統領府近くまで浸透してきます。工作員31人のうち30人が死亡、1人が逮捕されました。この人数については不明な点もありますが、北朝鮮からの脅威を朴正熙は実感することになりました。

1971年の大統領選挙では、後に大統領となる金大中(キム・デジュン)氏と争い、金をばらまいたりとあらゆる手段を講じて勝利しようとしましたが、結果、かろうじて勝利します。

朴正熙が勝ちはしましたが、強力なライバルの出現に自身の権力基盤の危うさを感じたのでしょうか、同年10月にまた非常戒厳を宣布して国会を強制的に解散させ、2カ月後の12月に憲法を改正してそれまで直接制だった大統領選挙を間接制にします。これは「維新憲法」「維新体制」と呼ばれるものです。

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