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「反共」の同盟国メディアにも圧力をかけた全斗煥 1980年代、韓国の民主化を見続けた台湾紙特派員の回想

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1987年6月、デモ中に警察から発射された催涙弾の直撃を受けて意識不明・死亡した学生・李韓烈(イ・ハンニョル)を弔う反政府デモで、警察と対峙する学生運動家たち(写真・朱立熙)

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2024年12月、韓国の尹錫悦大統領が突然布告して始まった戒厳令騒動。民主主義国家・韓国で始まった「戒厳令騒動」に、日本以上に関心を寄せているのが、台湾だ。台湾は1949年5月以降、長らく戒厳令下に置かれ、韓国の民主化と同時期である1987年に解除された歴史を持つ。
その台湾を代表する韓国専門家で、1980年代を台湾紙特派員として戒厳令下の韓国で過ごした朱立熙氏は、今回の騒動をどう見ているか。台湾と韓国の戒厳令下の生活について回想する。

「フィルムを没収する」

私が初めて韓国に降り立ったのは1980年3月だった。台湾の新聞局(政府の広報機関)が手配した日本へのプレスツアーを終えた後、他の3人の記者とともに羽田空港からソウル・金浦空港までのチケットを購入、韓国を4日間観光した。

当時、朴正熙大統領が暗殺され、権力の空白期を迎えていた。つかの間の民主化の動きも見えるなど、本来なら韓国人の誰もが期待していた「ソウルの春」がやってくるはずだった。

しかし、全斗煥が1979年、いわゆる「12.12軍事クーデター」で政権を掌握して、民主化という春は訪れなかった。1979年5月17日22時に発令された戒厳令はまだ施行中だった。全斗煥らの「新軍部」が情勢を掌握する中、韓国社会の雰囲気は非常に厳しく、至るところで高圧的な緊張感が漂っていた。空気そのものが緊迫しているかのようだった。

〈12.12軍事クーデター〉
「粛軍クーデター」と呼ばれる。1979年12月12日、当時は韓国軍保安司令官だった全斗煥をはじめとする軍内部指摘組織「一心会」の主導権を奪い取った反乱。朴正熙死後、大統領となった崔圭夏(チェ・ギュハ)は軍部を掌握できず、全斗煥らのクーデターを黙認するほかなかった。1980年5月17日に1979年に首都などで限定して出されていた非常戒厳令が全国に拡大され、全斗煥が権力を掌握した。これに反発して韓国南西部・光州市で起きた民主化運動が光州事件につながる。

われわれ4人がソウル・景福宮の国立中央博物館(かつての朝鮮総督府庁舎)を見学した後、大通りに出てバスを待っていた時だった。台湾『青年戦士報』の記者がカメラを取り出し、暇つぶしとして向かいの建物を撮影し始めた。

その瞬間、銃を持った兵士が勢いよく警笛を鳴らして、われわれの元へ駆け寄ってきた。そして、全員を建物のほうへ連行し、事情を聞いたうえでフィルムの提出を要求した。「ここは立入禁止区域なので撮影は禁止だ」と言うのだった。

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