校舎内ではつねに「追われる者」としてのプレッシャーから、1浪目よりも余計にストイックになった新家さん。予備校後の時間や休みのときは動物園やバレエ教室に行って、動いているニホンザルやバレリーナの動きを一瞬で捉えるクロッキーに励み、デッサン力の向上にも必死に取り組みました。
スポ根漫画のようにがむしゃらになった2浪目でしたが、なんとこの年は前年度で合格した藝大の1次試験にも落ちてしまいます。
「今思うと、自分自身が作り出すものに自信が持てていなかったのかもしれません。人にお伺いを立てるような作品だったから不合格だったのだと思います。毎日、どうしたら合格する絵が描けるかを必死に悩み続けました。この頃になると、早く大学生になりたいという気持ちより、自分の意思で目指した東京藝大に行くという目標をどうしても達成したいという気持ちになりました」
東京の予備校で3浪目を決意
「どん底でした」と当時の心境を振り返る中で、この結果を受けて、両親の協力もあり3浪目を東京の予備校で学ぶ決断をします。
「両親と東京の予備校に通うことは一度も話し合ったことはなかったのですが、母親に電話で1次試験不合格を伝えたとき、『明日、パパがそっち行くから東京の家を決めてから帰って来なさい』と言ってくれました。親も最初は藝大を目指すのが本気かどうか半信半疑だったはずですが、ここまで(熱心に)やっているのを見てくれていたから、『やる』と言っているうちは、(この子は)やるんだろうなと思ってくれていたのだと思います」
3浪目の新家さんは、1浪で東京の大学に受かった弟と2人暮らしをしながら、池袋にあるすいどーばた美術学院に通います。
本当に絵が好きかどうかがわからなくなっていて、なおかつ「親にここまでしてもらって合格できなかったらどうしよう」というプレッシャーもあり、つらい状態でしたが、前年度に1次で落とされても、「まだ自分はできる」という根拠のない自信が自身を支えていたそうです。
当時のすいどーばた美術学院では日本画専攻の受験生だけで100人を超えており、毎年10人以上の藝大合格者を輩出していました。名古屋より多くの受験生に囲まれ、揉まれ、合格までの距離感がわかってきた新家さんは、どうやったら講評会で合格圏内である10位以内に入れるかを考えていたそうです。
「夏の全体のコンクールでは、15番までには入れていたんです。ただ秋から全然描けなくなってしまい、その頃に新しく設置された(上位)20人ほどだけで構成される選抜クラスから外れてしまいました」
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