3浪「東京藝大」黒歴史の浪人を"肯定できた瞬間" 合格後も受験時代の自分にとらわれていた

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新家さんは1972年、愛知県名古屋市内に生まれました。父親と母親は、大学卒業後に公務員として働いていました。

新家さん自身は、保育園のころから絵を描くのが大好きな子どもで、お絵かき帳には、つねに自身が描いたお姫様でいっぱいだったそうです。

一方で、このころには自分が思う自分の姿と周囲の見方とのズレに違和感を抱くようになりました。

「周りは運動が得意な活発な子として私のことを認識していました。ただ、私は運動が好きではなく、本当に好きなのは絵を描くことだったのです」

小学校時代は運動神経のよさを生かして市の陸上競技記録会に出場していたものの、運動よりも料理や裁縫など、モノを作ることのほうが好きだったと語る新家さん。公立中学校に進んでからは絵画部に入部し、運動からは距離を置いた生活をしていました。

中学生活の学業成績は、最初のテストはちょうど真ん中だったものの、次第に上がって、最終的には110/525番くらいにはなれたと振り返ります。

管理教育が厳しかった時代だったため、言われるままに勉強をこなしていましたが、中3になって進路を考えたときに「この生活を変えたい」と思ったそうです。

「テスト漬けの生活ではなくて、自分が好きなことができる学校に行きたいと考えました。当時美術科があったのは、県内でも有数の進学校である旭丘高校だけで、自分には行けるはずがないと思っていました。ですが、学校関係の仕事をしていた父親が、普通科ほどの学力がなくても合格できるみたいだ、と教えてくれたのです」

将来絵を描く仕事に就こうとは思っていなかったものの、週に12~13時間、美術の授業がある生活をなんとしても実現させたかった新家さん。

この当時、試験科目は5教科に加えて2時間の石膏デッサンであったため、美術室で石膏像を自己流で描きながら、家庭教師に週1回来てもらって受験勉強を続け、なんとか旭丘高等学校の美術科に合格しました。

自由な校風に浸かり絵を描かなくなる

こうして高校に進んだ新家さんは、念願の絵を描ける環境に入ったものの、中学時代とは比べものにならない自由な校風に浸かり、逆に絵を描かない生活を送ります。

試験で赤点こそ取らなかったものの、通知表のデッサンの評価が10段階で4だったこともあったそうです。

「授業で絵を描いていましたが、目的意識を持って取り組めませんでした。1年生のときは弓道部の活動に熱中し、1年間で二段を取得しました」

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