江戸時代の武士が利用した「介護休暇」の驚く中身 老親介護をバックアップした江戸時代の「休暇制度」
しかも和光にいたっては藩の重鎮であり、家老に準ずる「御相手番」の職に就いていました。現代人が持つ素朴なイメージとしては、それほど身分の高い人であれば、ずっと家にいる妻や使用人などに介護を任せきりにして、自身は介護については何もしない……などの状況が起こりそうにも思えます。実際、和光の実家には、和光の妹や「根小屋かかさま」などの女性も父・光成と一緒に住んでいました。
しかし和光は父の介護を任せきりにせず、「看病御暇」を藩にわざわざ申し出て、実家通いをして実父のケアに当たっています(もっとも渋江家は由緒ある武家なので使用人も多いでしょうから、そうした人たちにあれこれ指示・命令することも多かったとは思われますが)。
この「息子が率先して父の介護に取り組む」「女性ではなく男性が介護の中心役になる」などの特徴は、水野重教、渋江和光に共通している事象といえるでしょう。なお、和光の実父・光成の介護には、妹の婿養子である左膳もまた、「看病御暇」を取得してケアに当たっています(和光が「看病御暇」を返上してから2日後である11月29日の記録に、「左膳」も同様に返上して出勤したとの記載があります)。
父が倒れた翌々日に介護休暇を取得
もちろん介護には光成の妻や娘も協力していたとは思いますし、介護現場で使用人があれこれ指示される状況もあったとは思います。しかし和光と左膳は、父(和光にとっては実父、左膳にとっては義父)のケアを最優先事項として位置づけ、父が倒れた翌々日に藩から介護休暇をとって、体調が安定するまでしっかりと介護に向き合っていたわけです。
なお快方に向かった父・光成は、年が明けた1815年(文化12年)1月に剃髪(ていはつ)して名前を「逸斎(いっさい)」と改め、隠居生活を送りました。外に出歩いたりしているので、病後も元気だったようです。それから約3年後の1818年(文政元年)8月12日に脳卒中の再発により倒れ、翌13日に亡くなっています。
倒れたときはすでに重体で、和光は12日に看病御暇を藩に申し出ました。しかし介護する必要はなかったわけです。光成の最期は苦しむこともなかったようで、ピンピンコロリの大往生を迎えたといえます。亡くなる直前の3年の間に、和光は結婚して子供も生まれていました。和光の子、つまり光成にとっては孫の顔を見られたので、幸せを感じられたのではないでしょうか。
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