江戸時代の武士が利用した「介護休暇」の驚く中身 老親介護をバックアップした江戸時代の「休暇制度」

ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

渋江和光は1791年(寛政3年)1月14日、渋江家の分流である「渋江光成(みつなり)」の長男として生まれました。そのままいけば和光も分家の当主となったわけですが、宗家の当主が病気になって余命いくばくもなくなり、加えて宗家には跡継ぎとなる男子がいなかったため、和光が13歳のときに急遽宗家の養子に入ります。

これはかなり急だったようで、養子に入った時の宗家の主は「渋江敦光(あつみつ)」でしたが、この人が亡くなるのは1803年(享和3年)6月20日であり、和光が養子に入ったのは同年6月12日。わずか一週間ほど前です。通常、こうした家の存続だけを目的として、現当主が亡くなる直前に慌てて養子縁組をしても認められないことが多く、渋江宗家についても、慣例に従えば知行召し上げとなっても仕方なかったといえます。

しかし渋江宗家は藩の特別な計らいにより、和光を当主として家名が存続しました。先祖である「渋江政光(まさみつ)」が大坂冬の陣で戦死しているので「先祖抜群之戦功」であり(この時から約190年前の出来事ですが)、さらに1778年(安永7年)に秋田藩のお城である久保田城が焼失した際、渋江家の屋敷が「仮御殿」になった点を配慮したとの旨が、秋田藩の公式文書として残っています。

24歳のときに親の介護に直面

渋江宗家の跡を継いだ和光の知行高は2962石(1811年〔文化8年〕時点)であり、これは秋田藩の中でも最上位層に位置する石高の多さです。ただし跡を継いだときは13歳の若年であったため、実父である「渋江光成」と、親族である「荒川宗十郎」の2名が「加談(補佐役)」を命じられています。なんとか無事に宗家を継いだものの、和光は亡くなるまで、宗家の先祖の多くが就いてきた家老職にはなれなかったようです。

ともかくも宗家に養子に入って偉くなってしまった和光でしたが、日記を書き始めて間もない24歳のときに、親の介護に直面します。実家に住む実父・光成が、1814年(文化11年)10月6日に、中風を再発して倒れてしまったのです。その日の日記には、以下の記述があります。

「九ツ時少過根小屋かゝさまより御使者にて、親父様中風御当り直しにて御勝不被成候故、早々参候へと申来候故、……」
(正午過ぎに根小屋の母から御使者があり、親父様が中風を再発してしまい、体調が宜しくありません、早々に参られたしとのお知らせがありましたので、……)

関連記事
トピックボードAD
キャリア・教育の人気記事