江戸時代の武士が利用した「介護休暇」の驚く中身 老親介護をバックアップした江戸時代の「休暇制度」

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看病断制度の適用例を示す史料は各地に残っており、その中から丹波亀山藩(現在の京都府亀岡市付近)のケースをご紹介します。

江戸の文政期(19世紀初め頃)、丹波亀山藩は幕府から、京都で火事が発生したときの火消の役割を担う「京火消詰」の役目を他の数藩と共に任されていて、担当の藩士が京屋敷に赴任する必要がありました。1820年(文政3年)4月、丹波亀山藩士の「伊丹孫兵衛」がその役目を果たすべく京屋敷に詰めていたのですが、その現場の上役に対して「祖母が病気になり具合が良くないので、看病をするため火消詰の休業をしたい」と願い出ています。

原文には「以御憐愍看病之御暇被下置候様」などとあり、看病断の一種であると考えられます。ただ上役への届け出書によると、急に現場の上役に願い出たのではなく、事前に孫兵衛の関係者から藩の重役に申し出があって、すでに協議はされていたようです。申し出が認められ、孫兵衛が祖母の看病をしたところ、すぐに快方に向かったようで、5日後に現場に戻ったとのこと。つまりケアを理由とする休みの取得日数は5日だけでした。

こうした看病断に該当する制度とその運用の記録は、幕府をはじめ、広く実施されていたようで、既存研究によると幕府のほか、弘前、八戸、盛岡、秋田、仙台、米沢、勝山、新発田、小田原、松代、高崎、拳母(ころも)、沼津、徳島、久留米の諸藩で制度化されていたといいます。

武士の「近距離介護」

武士が看病断を取得した事例の一つに、秋田藩(佐竹家)の藩士であった「渋江和光(しぶえ・まさみつ)」が記していた『渋江和光日記』があります。和光は53歳で亡くなりましたが、24歳から49歳までの約25年にわたって日記を書き続けていて、それが現代まで残っているのです。

藩士といっても渋江家は代々秋田藩の家老職を務める由緒ある家柄であり、自家でも家臣団を抱える藩の最高幹部です。ただ渋江家には直系の宗家と分家があり、家老を輩出しているのは宗家の側で、和光が生まれたのは分家でした。

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