江戸時代の武士が利用した「介護休暇」の驚く中身 老親介護をバックアップした江戸時代の「休暇制度」
文中にある「根小屋」とは和光の実家のある地名であり、久保田城の南側に広がる武家屋敷街の一つである「東根小屋町」を指します。先述の通り、和光は分家である渋江光成の家を継ぐはずでしたが、13歳のときに渋江宗家の養子となりました。そこで和光の代わりとして実家では、和光の妹の夫であり、秋田藩士の宇都宮家から迎え入れた婿養子・「渋江左膳光音(さぜんみつね)」が光成と暮らしています。この人は和光と近しい間柄で、「左膳」と呼ばれて日記にも頻繁に登場しますが、光成が倒れたとの知らせを受けた日、和光はこの左膳と一緒に夜を徹して光成のケアに当たりました。
そして翌7日、和光は五ツ半時過(午前8時過ぎ)に東根小屋町の実家から宗家に戻っています。一晩ずっと実父の傍にいて、朝になってから帰宅したわけです。宗家は東根小屋町の通りを北に進み、堀・門を通った先の三の丸の一角にあり、およそ500メートルほどの距離です。和光は自宅に戻った後、午前11時頃からひと眠りして午後1時頃に起き、午後2時には再び実家に行って、午後10時過ぎに帰宅したと日記に記しています。
「看病断」の申請手順
翌10月8日には、倒れた光成の様子から介護が長期にわたると判断したのか、藩に対して「看病御暇申立」を行っています。ここでいう「看病御暇」とは、先に触れた「看病断」=介護休暇に該当するものです。和光は1807年(文化4年)から1837年(天保8年)まで、途中間が空くものの、延べ23年にわたって家老に次ぐ役職である「御相手番」を務めました。実父が倒れたときはこの職に就いていた時期に重なります。そのため看病御暇を取る旨は、職場の同僚である「同役衆」に対しても回文(回覧板のようなもの)の形で通知しています。
「看病御暇」の申請が受理された和光は、この日以降、連日実家通いをして父の看病を続けていきます。和光の介護形態は、現代でいう別居介護に該当し、さらにいえば、自宅から「スープの冷めない距離」に住んでいる親の介護をする、「近距離介護」に当てはまります。