一方、コント漫才では「素の自分」に戻ることなく「設定上の役柄」を演じ切ります。それを見事に成立させている代表格は、サンドウィッチマンの「ピザ屋」のネタですね。
このネタでは富澤(たけし)さんも伊達(みきお)さんも、素の自分をいっさい見せることなく、ピザ屋の店員とお客さんという役柄を最後まで演じています。コント漫才では、すでにボケとツッコミが場面設定を共有している一種の共犯関係にあり、あくまでもツッコミは「コント内のキャラクター」として振る舞うことになります。
漫才的なストレートな表現が不自然に
そこでは本来、「コント的なツッコミ」しかできません。設定を共有したうえでのツッコミなので、あまり激しくできない。ボケを仕掛けられて被害者になってしまったイライラを、漫才的にストレートに表現すると不自然になってしまうんです。
ツッコミ側が場面を共有していることで被害者感が薄れているので、「今、初めて言われた」「ふいに理不尽なことをされた」みたいな顔をして突っ込んでも、うそっぽくなってしまうんですよね。そんな反応にならんやろ、と。
「共闘」の割合が大きくなればなるほど、「織り込み済み」ということになり、ツッコミがボケの被害者としてイラつく理由がなくなってしまう。コント漫才では、基本的に、いかにも漫才的な強いツッコミがしづらいんです。
にもかかわらず、なぜサンドウィッチマンのネタが漫才として爆笑をとれるのか。意外に思われるかもしれませんが、そこで大きなファクターとなっているのは、伊達さんの風貌やと僕は見ています。
伊達さんがちょっとコワモテやからこそ、設定上の役柄として言う「ふざけんなよ!」みたいなシンプルなツッコミを、不自然でなく、漫才らしく強めに響かせることができる。だから見ているほうも、違和感なく素直に笑えるんちゃうかなと思います。
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