ノンスタ石田の「漫才か、漫才じゃないか」の答え やすきよ大師匠の掛け合いにみる「漫才の原点」

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そして「偶然の立ち話」なので、ボケがどんな変なことを言うのかをツッコミ側が「知らない体」でなくてはいけません。

もちろん漫才は作り物です。台本を作って、何度もネタ合わせをして、調整を加えつつ練り上げたものを持って舞台に立つ。それは見るほうもわかっている。かつては「ネタ合わせ」があること自体、お客さんは意識していなかったかもしれませんが、今は完全にみんな理解しています。

それでも、「偶然の立ち話」という設定のもとで、どれだけ「打ち合わせがない」ように見せられるかどうか。どちらかが変なことを言って、どちらかが突っ込む、ボケの加害者が仕掛けてツッコミの被害者が打ち返す、というのがずっと繰り返されるのが、漫才の基本です。

「漫才」を語るうえでは、まずはそこから始めるべきやと僕は思ってるんです。

一例を挙げれば、やすきよ(横山やすし・西川きよし)師匠の漫才ですね。きよし師匠がボケて、やすし師匠が突っ込んだかと思ったら、今度はやすし師匠がボケて、きよし師匠が突っ込む。仕掛ける加害者と、それを打ち返す被害者が反転しつつ、絶妙なスピード感とテンポで、ボケとツッコミが次々繰り出されます。

大師匠を挙げて生意気をいうようですけど、今見ても見事やなと思います。

お客さんにとっても、実は「偶然の立ち話」という設定に乗っかる、もっといえばだまされるというのは、一番わかりやすいスタンスです。

お客さんがこのスタンスでいてくれていると、必然的に笑いも起こりやすくなるんです。なぜかというと、お客さんたちにとって、変なことを言うやつを常識的な立場から問いただすツッコミは、自分たちの「代弁者」だから。

お客さんが心の中で「なんでやねん!」と思ったタイミングで、ツッコミが「なんでやねん!」と叫ぶ。お客さんがツッコミと同じ立場になる、いうなれば会場中がボケの「被害者友の会」みたいになると、演じる側と見る側とに一体感が生まれます。

こういう反応を起こせば起こすほど笑いが起こるというのが、漫才の基本メカニズムです。

だからこそ漫才は、長きにわたり愛されてきたんやと思います。ツッコミが代弁してくれるから、お客さんは何も考えずそこに乗っかればいい。漫才が大衆芸能であり続けたのは、「人を選ばず笑わせることができるもの」だからやと思います。

漫才と「漫才コント」「コント漫才」の違い

SNSなどでは、一般の人たちの間でも「漫才か、漫才じゃないか」論を戦わせているのを見かけますが、そもそも「漫才」と「コント」の違いがよくわかってない人も多いんやないかと思います。

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