「メディアに出るようなお店ではなかったですが、口コミで広がっていたように思います。私の友達もよく家族で食べに来ていましたし、平日は部活帰りにみんなで『丸鶴』に集まっていました。陸上部や柔道部などみんな『丸鶴』に集合して、うちのオヤジがタダで食べさせていました」(城咲さん)
かつてはメニューがとてつもない数だったが、調理はほとんど父のワンオペで、適宜母がフォローするという形だった。
「当時からこれだけ人に愛されているというのは凄いなと思って見ていました。しかし一方で、飲食店の厳しさを子供ながらに感じていました。オヤジは営業中にはなるべく包丁を使うなと言っている人で、やれることはすべて事前の仕込みで行います。営業が終わってからすぐに次の日の仕込みを始め、翌日も朝早くから仕込みをしていました」(城咲さん)
その中で、飲食店には当然売り上げの浮き沈みがある。一生懸命仕込みをしていてもすべてが売り切れるわけではない。営業が終わった後に余った食材を捨てているのを見るのが本当に辛かった。
バブル時代には、宴会がダブルヘッダーで行われることもしばしば。フル回転でお店を回していたが、バブル崩壊とともに、味が落ちたわけでもないのに客足は遠のいていった。
「小学生ぐらいまではこの店は自分が継ぐんだとなんとなく思っていましたが、そのうち自我が芽生え始めて、少しずつ心が離れていきました。うちの両親は働くのが好きで、1週間のうち半日ぐらいしか休んでいませんでした。ゴールデンウィークやお盆も営業していて、自分がいざ大人になって家族を持った時にこの生活がしたいかと思うと、それは違うなと思ったんです。尊敬はしていたけどその人生は選べなかった」(城咲さん)
父の言葉でホストの世界へ
高校3年生の頃、進路をどうするかという話になり、初めて父から「お前店を継がないのか?」という言葉が出た。早く社会に出たかった城咲さんは拒否反応を示し、ここから親子の仲が一気に悪くなった。
こうして城咲さんは高校時代から夢だったバーテンダーになるべく、家を出た。21歳まで2年半、バーテンダーの修業をした。
ここで転機が訪れる。城咲さんが当時組んでいたバンドのメンバーが、一緒に住んでいる家で自殺をしたのである。
「彼も地方の名家の生まれで、後継ぎを迫られていました。彼は亡くなる直前、私の働いていたショットバーの端の席に座り、最後ビールを飲んでそのまま死んでいきました。そんな彼の姿を目の当たりにし、私は半年間働けなくなり、そしてお金もなくなりました」(城咲さん)
無料会員登録はこちら
ログインはこちら