そもそも、文化人類学的にいえば、何かを持つ、所有することはとてもリスキーなことなのだ。経済学者のジャック・アタリは、『所有の歴史』(山内昶訳、法政大学出版局)で、モノや土地の集積に対する執着は、多くの古代社会で災いをもたらすとされていると指摘した。とりわけ「自分で作ったものではない財の占有は、危険となる」と。
ハリソンは、土地は「本来は誰のものでもない」と述べているが、人類史においては、厳密には「神々、先祖たち」のものであった。大地そのものが「神々、先祖たち」が創り出したものであり、地上に生きる人々はそれらを与えられたにすぎない。それをみだりに取り扱うことは「神々、先祖たち」の怒りを買うことを意味する。
加えて、前述のさまざまなモノたちは、生まれた場所、もとの所有者に戻ろうとする特性がある。アタリは、マオリ族の例を挙げ、他人の所有物を自由に使って、そのモノから生じた利益や報酬を返さないと、死が待ち受けているとされており、このような考え方は広範に見られるとした。
つまり、トルストイの民話の悪魔は、元来の土地の持ち主である「神々、先祖たち」の末裔といえる。ハリソンも同様である。いわば、人々の記憶の古層に眠る「神々、先祖たち」に代わって、懲罰を下す悪魔的な存在として現代に復活したのである。このような贈与のメカニズムとその根底にある倫理観は、今もなおわたしたちの心の中に息づいているのだ。
何も変わっていない本質
『所有の歴史』が示唆する文化人類学的な復讐劇は、ハリソンのせりふ「土地自身には人間を滅ぼしたいという本能があるのかもしれませんね」と奇妙に響き合う。21世紀版「人にはどれほどの土地がいるか」である『地面師たち』は、悪魔の所業が最新のものにアップデートされただけであって、「あたえること、それは脅迫することであり、うけとること、それは、生命を危殆(きたい)にさらすこと」という本質は何も変わっていないからだ。
ドラマでは、地面師詐欺に翻弄されるデベロッパーにとどまらない、所有をめぐる皮肉がちりばめられている。ホストを独占しようと躍起になる女性僧侶、少女たちを拘束し、もてあそぶことで不満を解消しようとするホスト、さらには、苦労して買ったマイホームを持っているが、夫婦関係は冷め離婚寸前にある刑事にも、それらの片鱗が示されている。愛、セックス、身体……所有という“沼”に落ちた者に降りかかる狂乱である。
わたしたちは、あたかもゲノムに刻み込まれた道徳的な心理傾向に促されるかのように、土地に復讐される人々の物語を至極当然のこととして受け止めているのではないだろうか。それこそが世界の摂理なのだと達観しているように見えるのだ。
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