蔦屋重三郎「寛政の改革」跳ねのけた"反骨の生涯" 厳しい締め付けを「ビジネスチャンス」に変えた

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寛政3(1791)年、町奉行所の判決が出て、3冊の洒落本は絶版、作者の山東京伝は手鎖50日(両手首に手鎖をはめ自宅謹慎)、版元の蔦重は身上に応じた重過料(罰金刑)を科せられた。

江戸でもっとも有名な戯作者と地本屋を処罰したことは、「寛政異学の禁(幕府の聖堂学問所で朱子学以外の講義・研究を禁止)」や林子平の処罰とともに、「寛政の改革」の思想統制の厳しさを示す事例として、すべての高校日本史の教科書に掲載されている。

先に触れたとおり、寛政3(1791)年、3冊の洒落本(『仕懸文庫』『錦之浦』『娼妓絹籭』)の作者である山東京伝と版元の蔦屋重三郎、加えて発売可と判断した地本問屋の行司仲間(当番)2名が幕府によって処罰された。

耕書堂を経営する蔦重からすれば、幕府の出版統制によって朋成堂喜三二・恋川春町という武家出身の戯作者ツートップを失ったこともあり、町人出身の人気戯作者である山東京伝の洒落本では、あえて発禁処分ぎりぎりのところを狙ったのである。それは高収益が見込めたからで、危ない橋を渡る価値があった。

蔦重の「育成者(トレーナー)」としての顔

蔦重は、ほぼ確信犯であったがゆえに幕府に処罰されても意欲は衰えなかった。

幕府に洒落本の執筆を禁じられ、意気消沈していた山東京伝を激励し、代わりに(おとなしめの)黄表紙の執筆をすすめて書かせつつ、刊行物の中心を戯作や狂歌絵本から浮世絵へと移した。そして、書物問屋仲間に加盟して専門書・学術書の出版も手掛けるなど、商魂たくましく新事業を手掛けていった。とくに旧知の喜多川歌麿には美人の大首絵(上半身のみの絵)をすすめた。

それまでは、永寿堂の西村屋与八が売り出した、浮世絵師の鳥居清長による全身を描いた美人画が評判であったが、蔦重は歌麿の大首絵(美人画)を刊行することで与八が創った美人画ブームを継承し、歌麿の『婦女人相十品(ふじょにんそうじっぽん)』「寛政(江戸)三美人」などを売り出すことで浮世絵界を牽引した。

ただし、売れっ子となった歌麿は、他の版元からも出版の誘いが多くなり、蔦重のもとを離れることになった。

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