蔦屋重三郎「寛政の改革」跳ねのけた"反骨の生涯" 厳しい締め付けを「ビジネスチャンス」に変えた
また、蔦重は育成者(トレーナー)としての顔も持つ。
寛政4(1792)年、山東京伝の家に居候していた武家出身の戯作者・曲亭馬琴を、蔦屋の手代として雇用し次世代の戯作者として育成。馬琴はのちに耕書堂から読本・黄表紙・合巻などを出版し、自立して生計を立てた。
また、蔦重は葛飾北斎に京伝や馬琴作の黄表紙の挿絵を描かせるなど、次世代の浮世絵師として育成した。
蔦重の死後、北斎は耕書堂の看板絵師となる。「耕書堂」の店舗を描いた有名な絵は『画本東都遊(えほんあずまあそび)』に収録されたもので、『富嶽三十六景』は後世に世界的な知名度を誇るようになった。
幻の浮世絵師・東洲斎写楽をデビューさせる
寛政6(1794)年、蔦重は、幻の浮世絵師・東洲斎写楽をデビューさせた。
写楽はわずか10カ月の間に「三代目大谷鬼次の江戸兵衛)」「市川鰕蔵の竹村定之進」などの役者絵や相撲絵など145点ほどを残し、忽然とその姿を消している。
写楽の作品は現代でこそ「役者の内面にまで迫っている」などと絶賛されることもあるが、当時は話題にはなってもそれほど人気はなかった。
あくまでも役者絵はファンが買う「ブロマイド」なので、美しくなければ意味がない。誇張しすぎたり、リアルすぎたりすれば客が引く。
写楽の正体は謎だが、山東京伝説や葛飾北斎説、途中で作風が変化することから複数人説、果ては蔦重説まである。
近年の研究では、阿波国徳島藩主・蜂須賀氏お抱えの能役者「斎藤十郎兵衛」説が有力である。
記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
印刷ページの表示はログインが必要です。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
無料会員登録はこちら
ログインはこちら