蔦屋重三郎「寛政の改革」跳ねのけた"反骨の生涯" 厳しい締め付けを「ビジネスチャンス」に変えた
この作品は喜三二の親友で、人気作者・絵師の恋川春町が文武奨励策を題材として、他の版元から出版した黄表紙『悦贔屓蝦夷押領(よろこんぶひいきのえぞおし)』に比べて、忖度なし、切れ味抜群の問題作であったが、ベストセラーを記録した。
しかし、幕府からの叱責を怖れた外様大名の秋田藩佐竹氏(喜三二の主家)に、喜三二は叱責され、執筆を自粛して戯作者から引退した。以後、喜三二は「手柄岡持(てがらのおかもち)」の名で狂歌師に転じる。
恋川春町が亡くなり、山東京伝も処罰される
寛政元(1789)年、喜三二の『文武二道万石通』に刺激を受けた恋川春町は、勇み立つ蔦重と黄表紙『鸚鵡返文武二道(おうむがえしぶんぶのふたみち)』を刊行した。
内容は定信の教諭書『鸚鵡言(おうむのことば)』のパロディで、「文武両道、文武両道」と小うるさい改革を切り捨て、これまた大評判のベストセラーとなった。
しかし、黄表紙による相次ぐ批判に激怒した定信から絶版処分を受け、さらに恋川春町は江戸城への出頭を命じられた。しかし、彼は病気を理由にこれを辞退すると、譜代大名の主家・小島藩松平氏に迷惑をかけたとして、おそらく自害したようだ(死因には諸説あり)。
一連の動きを見た幕臣の大田南畝(四方赤良)は、身の危険を感じ黄表紙・洒落本・狂歌・狂詩などの文芸活動全般を一時自粛した。
さらに寛政2(1790)年、幕府は8代将軍徳川吉宗が享保7(1722)年に出した出版統制令の増補修正という形で、5月に書物問屋仲間、10月に地本問屋仲間、11月に小売・貸本屋に対して出版統制令を出した。
これにより政治批判や揶揄は許さず、原則として書籍の新規刊行は禁止。刊行する場合は、町奉行所の許可が必要となった。そして、風俗や秩序を乱す好色本は絶版、速報ニュースを扱う瓦版も内容を自粛する方向に入り、切れ味を失った。
しかし、蔦重は懲りない。
当時、すでに山東京伝が3冊の洒落本『仕懸(しかけ)文庫 』『錦之浦』『娼妓絹籭(しょうぎきぬぶるい)』の執筆中だった。蔦重は、幕府による出版統制の中でなんとか発売にこぎつけたものの、これが幕府の逆鱗に触れる。黄表紙のような政治批判や揶揄ではなく、洒落本は遊里(遊郭)小説なので「風俗や秩序を乱す」と判断されたのである。
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