蔦屋重三郎「寛政の改革」跳ねのけた"反骨の生涯" 厳しい締め付けを「ビジネスチャンス」に変えた

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戯作者や狂歌師、絵師として名のある朋誠堂喜三二(ほうせいどうきさんじ)、恋川春町(こいかわはるまち)、山東京伝(さんとうきょうでん)、四方赤良(よものあから/大田南畝)、宿屋飯盛(やどやのめしもり/石川雅望)、北尾重政、喜多川歌麿に加え、場合によっては奇才・平賀源内にまで依頼可能な蔦重にとって、各商品の問屋がスポンサーにつくこと(広告収入)で、大量かつ多岐にわたる出版物を出せる時代が到来したといえる。

しかも現代とは異なり、この時代は作家・画家という職業が確立していなかったがゆえに、彼らに謝礼を払うという発想もなく版元の取り分が多かった。こうして蔦重はメディア王の地位にがっちり指をかけた。

しかし、そんな蔦重にも落とし穴が待ち受けていた。御上(御公儀)からの弾圧・取り締まりである。

天明7(1787)年、14歳で政治未経験の11代将軍徳川家斉の治世を迎えると、29歳の老中首座・将軍補佐の松平定信は、緩い政策をとった田沼時代からの転換を目指した。

厳しい政策により幕府の権威を強め、農村復興をはかる理想主義的な改革、これが寛政の改革である。

定信は士風を刷新、文武を奨励し、綱紀の粛正をはかった。厳しい倹約令に、湯屋(銭湯)の混浴禁止など、これまで許されていたことが許されない。窮屈な雰囲気が蔓延し、江戸の街に暮らす下級武士・町人たちの不満が高まっていった。

幕府の厳しい締め付けを「ビジネスチャンス」に

その頃、日本橋に進出していた蔦重は、これをビジネスチャンスととらえた。幕府の改革を真正面からは批判せず、江戸庶民の心情を代弁した戯作で風刺し、徹底的に茶化すことで爆発的なセールスを記録したのである。

蔦重が版元になった当初から、序文(まえがき)や跋文(あとがき)、遊女評判記などで世話になってきた15歳上の朋誠堂喜三二は、安永9(1780)年以降、耕書堂(こうしょどう/蔦重が開業した版元兼書店)から出版された黄表紙や洒落本のヒットを飛ばしてきた。

蔦重はこのもっとも信頼する戯作者(喜三二)とともに、天明8(1788)年、黄表紙『文武二道万石通(ぶんぶにどうまんごくどおし)』を刊行し、世に問うた。それは時代設定を鎌倉時代に置き換えているものの、内容は将軍家斉と老中定信の改革を茶化したものだった。

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