むなしく帰っていった男が、恨み言を言っているわけだが、式部はこう返している。
「かへりては思ひ知りぬや岩かどに浮きて寄りける岸のあだ波」
(虚しくお帰りになり、こういう女性もいるのだとおわかりになりましたか。岩角に浮いて打ち寄せた岸のあだ波のように、すぐに言い寄ってきたあなたは)
相手は女性とみれば寄ってくるような男だったため「自分はそんな口説きには乗らない」と、きっぱり断ったことがわかる。
しかし、この男、なかなかしつこかった。
「年返りて門はあきぬやといひたるに」(年が明けて、「門は開きましたか」と言ってきたので)、つまり「そろそろ私を迎え入れてくれますか」と新年早々やってきたので、式部はこう返事をしている。
「たが里の春のたよりに鶯の霞に閉づる宿を訪ふらん」
(ウグイスはどなたの春の里を訪れたついでに、霞の中に閉じこもる、喪中のこの家を訪ねて来たのでしょうか)
以降は歌のやりとりがみられないので、ようやく諦めたらしい。招かざる客の来訪に「ああ、夫がいてくれれば……」とさらに虚しさが胸に去来したことだろう。
物語によって式部自身が癒やされていた
紫式部が『源氏物語』を書き始めた時期については、よくわかっていないが「夫の死後で、かつ、宮仕えする以前」とする説が有力である。
友人同士で物語を作って見せ合っているうちに、本格的な執筆へと入ったのだろうか。

式部は『紫式部日記』で「<いかにやいかに>とばかり、行く末の心細さはやるかたなきもの」(心に思うのは<いったいこれからどうなってしまうのだろう>と、そのことばかり。将来の心細さはどうしようもなかった)と不安な胸中を吐露しながら、つらさをこんなふうに紛らわせたと書いている。
「はかなき物語などにつけてうち語らふ人、同じ心なるはあはれに書き交し、すこしけどほきたよりどもを. 尋ねてもいひけるを、ただこれを様々にあへしらひ、そぞろごとにつれづれをば慰めつつ」
(取るにたりないものでも物語については、同じように感じ合える人と腹を割った手紙を交わし、少し疎遠な方にはつてを求めてでも声をかけた。私はただこの「物語」というものひとつを素材にさまざまな試行錯誤を繰り返し、慰み事にして寂しさを紛らわしていた)
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