「夫を亡くして放心」紫式部が中宮彰子に抱く共感 将来への心細さを抱えながら源氏物語を執筆

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紫式部と比較されやすい、清少納言による『枕草子』もまた、成立背景はよくわかっていない。

だが、藤原定子の華やかなところのみを表現していることから、暗くつらい状況に陥った定子を勇気づけるために、書かれたものではないかといわれている。

そうであるならば、清少納言がたった1人のために書いた読み物が、時代を超えて今でも多くの人に読み継がれている、ということになる。

紫式部が寂しい気持ちを鎮めるために書いたとすれば、『源氏物語』もまた、もともとは、たった1人のために書かれたものだったということになる。

自分のために書いたからこそ、未曽有の長編物語になるほど続けることができ、結果的には、文学史に金字塔を打ち立てることになったのかもしれない。

そして、そんな『源氏物語』の評判を聞いた藤原道長から働きかけられて、式部は道長の娘・彰子に仕えることになる。

宮仕えが「恥さらし」とされたワケ

式部が彰子のもとに出仕したのは33歳~34歳の頃で、寛弘2(1005)年、あるいは、寛弘3(1006)年の年末からだったとされている。

しかし、女性が他人の前に姿を現すことが珍しかった当時において、宮廷に仕えて、多くの人を取り次ぐ女房の仕事を「恥ずべきもの」とする風潮があったようだ。

藤原実資は長和2(1013)年7月12日付の『小右記』で、宮仕えについて、次のように評している。

「近頃は、太政大臣や大納言などの娘でも、父が死ぬと宮仕えに出るが、世間ではこれを嘆かわしいこととしている。末代の公卿の娘は先祖の恥さらしというものだ」

そこまで言われれば、当の女房たちだって反発したくなるというものだろう。

中宮の定子に仕えた清少納言は『枕草子』で「宮仕する人を、あはあはしうわるきことにいひおもひたる男などこそ、いとにくけれ」と書いて、宮仕えをする女性を「軽薄で悪いことだ」ととらえる男性のことを憎らしい、と恨み言を書いている。

それと同時に、女房たちはどうしても、本来は口にすることさえも恐れ多い天皇や、中宮など高貴な人たちと接することから、清少納言は世間から「みっともない」と言われることについて「げにそもまたさることぞかし」(それはもっともなことなのかもしれない)と、諦めの境地に達していたようだ。

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