「虎に翼」モデル"三淵嘉子"大胆すぎるスキー事件 アクティブな嘉子のあだ名は「ムッシュ」だった

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そうして存分に学生生活を楽しみながらも、嘉子が身を置いた女子部の環境は、決して生ぬるいものではなかった。

入学時には50人近くいたにもかかわらず、卒業時には20人あまりにまで減少。結婚による退学が多かったようだ。なかには、本人の意思に反して、親に縁談を押し付けられて、法律を学ぶことを断念したケースも少なくなかった。

女子部全体で100人あまりという状況について、嘉子は「専門学校というより塾と呼ぶのにふさわしいような小さな学校」と振り返りながら、学生たちの様子をこう表現している。

「生徒も女性解放の意気に燃える女闘志やら、私のように世間知らずの女学生等年齢も10歳代から40歳を超える年齢の女性までまことにバラエティーに富んでいた。ともかく普通の女子学校にはない厳しい、しかも大人の雰囲気があった」

本気で学ぶつもりがある人しか、勉強を続けられない環境だったといってよいだろう。

試験では男子学生にカンニングを迫られる

1935(昭和10)年3月、嘉子は20歳で明治大学専門部女子部を卒業すると、明治大学法学部へと編入する。

男子学生との共学となったが、互いに交流するような雰囲気ではなかったようだ。女子学生はつねに教室の前のほうで授業を受けて、授業外でも女子だけで行動していたという。

だが、異性という意味合いだけではなく、成績の面でも、男子学生は女子学生を意識していたのではないかと、嘉子は振り返っている。

「東京で法律を学べる唯一の大学である明大を目指してきた女子学生の中には優秀な人が多く、また勉強も真剣であったから、成績に関しては本家の男子学生を凌ぐものがあり、当時の明大の男子学生にとって女子学生の存在は競争刺激剤としての存在意味があったのではなかろうか」

逆に言えば、嘉子にとって男子学生はやや迫力に欠けたのではないだろうか。期末試験となれば、前後左右の男子学生からカンニングを迫られたこともあったとか。この逸話からも、男性のみが法律家になれるという、それまでの状況は、「はて?」と誰でも首をかしげたくなるというものだろう。

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