その絵画教室はデッサンを重視します。デッサンは細部に至るまできちんとルールが決まっていて、その通りに描かねばなりません。空間の生かし方にも、色の響き合いも、形の響き合いもルールがある。下塗りにも、油絵を描いていくそれぞれの段階における油の配合にも、すべてルールが決まっています。
なのに、制作過程における先生の指導の仕方は、生徒が描きつつある作品を前にして「この線はちょっと下に、この色はもっと弱く、この形はできれば消す……」という具合に、どこまでも具体的なのです。
私はしごく従順な生徒なので(?)その通りに描き直すと、また「この線は強すぎる、ここはもう少し空間を開けて、この形の繰りかえしはしつこい、この空間は無駄になっている……」という具体的な指示が出る。そして、いよいよ完成となり、(幸運なときには)自分でもある程度満足し、先生からもある程度の評価を受ける作品に仕上がる、というわけです。
一般規則で論証できない美学、一方の哲学は?
カントも『判断力批判』で繰り返し強調していますが、「趣味的(美学的)判断」は「これは美しい(美学的によい)」という単称判断しかないのであって、「なぜ美学的によいのか、あるいはよくないのか」と問われても、(絵画の基本的ルールに外れていればともかく)具体的証拠や一般規則を挙げるという仕方で論証することはできない。
演繹(えんえき)も帰納もできず、個々の作品を端的に「よい」か「わるい」か判定するしかない(一見理由らしきものを付け加えることはできますが)。そして、先生の、あるいは審査員の判定を尊重するしかない。自分は「そうではない」と感じても、さしあたり自分の未熟さを認めて「そうなのだろう」と思うほかはないのです。
さて、以前の記事「哲学塾に日々やってくる“厄介な”塾生たち」でも触れましたが、一般的に哲学の指導の仕方は、こうした指導の仕方とはまるで違うと思われています。
先生は言語で理由を挙げ、学生の論文を「~だからこの論拠は薄い、~だからここの説明は足りない、~だからここは前のところと矛盾する、~だからここは思考が散漫になっている」などと指導するのですが、言語や論理は20歳にもなれば、ごく普通の人でも基本的には習得しているので、初心者は(ちょっと頭がよければ)原理的にほぼ対等に反論できてしまう。
このことは、哲学書の解釈の場合はもっと顕著であって、初心者でも頑張れば先生の解釈とは異なる整合的な解釈を出せるかもしれない。その場合、先生は、長い経験により、それがずいぶん無理のある解釈であることはわかるのですが、それを「間違っている」と断定するのはかなり大変であり、その限り、学生はその解釈を主張し続けることができる。
医学や建築だったら、あるいは会社の製品開発だったら、結果がすべてを判定しますが、哲学にはこれに当たる「結果」がないので、「それは違う」と言っても、いつまでも納得しない学生がいて不思議はありません。私は、塾でこれまでしばしばこういう場面に遭遇し、油絵のように「それはよくない」と端的に言えたらどんなにラクだろうかと思っていました。
私としても、自分の解釈が正しいことを確信していますから、そう簡単に「ともに正しい」とは言えないし、といって「私は専門家だから私の解釈に従え!」と頭から命ずることもできず、あやふやなまま打ち止めにすると、かえってしこりを残したり、欲求不満の生徒を生み出したりしてしまったようです。
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