哲学者のほとんどが、はなはだしく独善的だ

「哲学を教えること」は、こんなにも難しい

このことは、以前から頭を抱えていながらずっと未解決のことであり、いまなお模索中です。その場合、多くの人が誤解していますが、哲学の議論は、(プラトンが描く)ソクラテスのように、「真理のみを求めて」自分の感情を押し殺し、理性のみを信じて進むわけではありません。それは、じつのところほとんど実現不可能な理想と言っていいでしょう。

というのも、相互に思い込みが激しいため、論点が初めからズレていながら、そのズレを見抜けないことが多く、「何について対立しているのか」がはっきりするまでに相当時間がかかるからです。

壮絶なバトルを繰り返して、やっとその対立点が「どこ」にあるかわかったころには、互いに自説に執拗に反論する相手に対して感情的に嫌気がさしていますので、その段階で互いに「あなたが(も)正しい」とは言えなくなってくる。そのまま感情的対立も含めた互いの「対立点」だけを確認してオワリ、というわけです。

私は、これまでおびただしい数のこうした哲学議論を見てきました。そして、頭を冷やして、まあ気に食わないが人間的に切って捨てることもあるまい……と自分に言い聞かせ、互いにずっと哲学研究者として付き合っていく、というわけです。

「感受性」にしがみつく哲学者

いいでしょうか。とくに初心者に言いたいのですが、哲学議論に臨むとき、(プラトンが描く)ソクラテス的理想を夢見てはなりません。哲学の専門集団でしばらくメシを食っていれば、「稔りのある議論」など皆無であることを知っているにちがいない。バトルが真剣であればあるほど、その後見解を変える哲学者などいません。その後見解を変えるのは、みずから反省するときだけです。

だいたい、哲学者のほとんど(全部?)は理性的ではなく、感情的です。感情的でない哲学者には私はこれまでただのひとりも会ったことがありません(干からびた「哲学研究者」ならいたかもしれませんが)。そして、ほぼ全員、プライドがむやみに高く、はなはだしく独善的であり、自分の(理性ではなく)「感受性」にしがみついている。

とはいえ、こうした不純な空気に慣れるにつれ、自分の感受性が必ずしも大多数の感受性と一致はしないまでも、それでも完全に「主観的」ではなく、優れた見解と劣った見解の間に「客観的」な線引きができるような気がする。こうした境地に至るには、ずいぶん時間がかかります。

というわけで、教室で哲学書を読むとなると、どのように指導すべきかが大難問となる。「公正に」解釈するように心がけないとダメなのだなとは思いつつ、やはり私は私の「感受性」に基づいた解釈しかできない。ほかの解釈はなかなか認めがたく、一応論理的に成り立つことは認めたとしても、私の「感受性」に合わないゆえに気に入らない。

さらに、私は45年もカントを読んでいるので、「その解釈にたてつくとは生意気な!」という傲慢な態度も頭をもたげてくる。生徒はそれを察知して、「なんという権威的な教師だ!」という反感を持ってしまう。こうして教室には「真理のみを求める」態度とはかけ離れた鬱陶しい空気が充満してくる。塾では、これまでこういうことが繰り返されてきました。

さて、どうしたらいいのでしょう?

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