「先生も生徒も感情を抑えて、理性的になり、相手の立場も尊重して……」。そんな紋切型の、口先だけの、脳ミソの微小部分を使って考え出しただけの、いかなる経験にも基づかない、きれいごとを唱えても仕方ありません。
最近、私は、ある程度はこうなっても仕方ないのではないかと思い始めました。哲学の議論は、やはり各人の全人生を背景にすることになるわけで、それは各自違うのだから、自分の見解や解釈に誠実であれば、そう簡単に他人の見解や解釈を「それもありうる」と認めるわけにはいかない。
こうした態度は、寛大に見えて、じつは自己欺瞞的ではないでしょうか? つまり、「哲学書の解釈に感情を交えてはならない」という意見は、果てしなく非現実的だと思います。なぜなら、自分の見解に正面から反論し、それを潰そうとする相手が憎くなるのは当然だからであり、敵を愛せないのは当然だからです。
最終的には、油絵の指導と重なる……?
(プラトンが描く)ソクラテスは「私は真理を求めているのだから、相手の見解が真理なら、自分は負けても一向に構わない」と言っていますが、実際ソクラテスが「負ける」ことはない設定になっていますので、説得力に欠けますし、ソクラテスの態度からは「絶対に勝つことを確信した余裕のある傲慢さ」が見え隠れします。
すなわち、人間としての自然な感受性を圧殺しないのなら、(読み違いとはっきりする場合を除き)やはり、先生は、よく吟味した解釈であればあるほど「私の解釈が最も正しいと思う」と頑張るしかない。
一種の居直りなのですが、こうしてみると、哲学の指導の仕方も最終的には油絵の指導の仕方と重なる面があるのかもしれない。
複数の可能な解釈のうち、「そこはこう解釈すべきだ」とか「そこはそうは読めない」という判断も、ある解釈が「論理的に精緻だ」とか、「より整合的だ」とか「より深い」という判断ですら、各人の感受性によって異なり、一通りには決まらず、そこに立ち入ると泥沼が広がっているからこそ、自分の信じる解釈を押し通すしかないのです。
とすると、先生は、自分の広い経験に基づいて、ちょうど油絵を判定するときのように、自分の感受性に忠実に「私はこう解釈する」と生徒に伝えるしかない。そして、もちろん生徒の異論に納得すれば、自分の解釈を撤回してそれに従えばいいのですが、それはきわめて稀であって、そうでないとき、生徒には通じなかった、とあきらめるほかないのです。
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