ホテルマン人生は戦後の日本とともに 帝国ホテル元社長・犬丸一郎氏①

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いぬまる・いちろう 1926年生まれ。慶応大学卒業、49年帝国ホテル入社。50年米国に留学。大学で学んだほか高級ホテルにも勤務。帰国してからは副総支配人、常務、専務、副社長を経て86年社長就任。97年から顧問を務め99年退社。近著に『軽井沢伝説』がある。

この9月でサンフランシスコ講和条約締結(1951年9月)から60年が経ちました。帝国ホテルに入社した翌年から米国に留学していた僕は、ちょうどそのとき、サンフランシスコのマーク・ホプキンス・ホテルで働いていたんです。

実は、その少し前にホテル学科のあるニューヨークのコーネル大学に行くつもりでしたが、ホテルのオーナーに「日本の全権団が来るので、日本語のできるお前は残ってくれ」と言われてたんですよ。

全権団(当時)の首席は首相の吉田茂さんで、あとは池田勇人さん、一万田尚登(いちまだひさと)さん、星島二郎さん、苫米地義三さん、徳川宗敬さん。同行されていたのが宮澤喜一さんや白洲次郎さんなど。

 米国の大学、ホテルで学んだこと

条約が締結されて、在留日本人グループがお祝いの会を開いたときの話です。サンフランシスコに留学中だったシャンソン歌手の石井好子さんが頼まれて歌を披露したんです。歌い終わった後、彼女が「お祝いの席なのに『荒城の月』を歌うなんて」と言っていたのをよく覚えています。このときにいた方々のほとんどがもう亡くなってしまいました。

サンフランシスコからコーネル大学に行き、その後ウォルドルフ・アストリア・ホテルで6カ月ぐらい働きました。ホテルにはマッカーサー元帥が住んでいました。直接話をしたことはありませんが、奥さんとはその後、ニューヨークに行くたびに食事をしたり。とても元気で行動的なミセスで、なんと101歳で亡くなったんですよ。

 米国の大学、ホテルで学んだことはたくさんありました。その頃の日本と比べれば当然ともいえますが、設備そのものがまったく違っていました。ホテルは、設備によって、人の使い方が変わってきます。

違っていたのはハードだけではありません。日本のホテルだと、あるセクションにいても、ほかの仕事を手伝うことがありますが、米国ではそれをしません。職域がはっきり決まっていて組合になっていますから。ほかのことに手を出さない代わりに、決められた時間にピシッと働く。労務管理の違いですね。

米国からヨーロッパに渡り、父の代わりにギリシャで開催されたホテル業界の会合に出て、いろいろな国のホテル人と親しくなりました。

「ローマへおいで」と言われてローマのハスラーに泊めていただいたり。パリでは勉強のためにジョルジュサンクに泊まりました。そして53年、ロンドンから貨物船に乗って帰国したのです。

週刊東洋経済編集部
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