「ソクラテスの毒杯」から西洋哲学が始まった理由 グローバリズム批判は「高貴ないきがり」である

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中野:数式を使っていて言語を使ってないと思うんですが、それでもそうなるんですね。それで言うと、自然科学や数学にも国民性が現れるなら、政治・経済にはもっと現れるはずです。それなのに日本の政治は政権交代がないから民主主義ではないとか言って、二大政党制を目指して政治改革をやった挙句、結局元に戻ったり、あるいは、日本的経営を否定してアメリカの経営を取り入れて失敗したりと、ずっとそうだった。そして今度はその反動で、グローバルなものを否定しようとして、ユニバーサリズムまで否定して(笑)。

産業革命という「偶然の必然化」

佐藤:近代はもともと、欧米的なものこそ普遍に最も近いという前提のもとに成り立っている。つまりこれは、近代にどう立ち向かうかという問題にほかならない。

中野:近代は普遍を追求していたが、近代主義やリベラリズムはユニバーサルとグローバルを誤解して、個別を消去できると思い込んだ。それに対してロマンティシズムは個別に走り、普遍を否定したが、それもまずい。こういった議論は、近代西洋思想には、もうずっとあります。

佐藤:けれども近代は産業革命によって、自分たちの「普遍性」を他の地域に押し付けるだけの力を手に入れた。第1回の記事でも述べたとおり、われわれは否応なく欧米に媚態を示さねばならなくなったのです。

中野:そうですね。でも、「そういうグローバルな帝国主義は全然ユニバーサルじゃない」といったような思想も西洋から出てきています。ちなみに、西洋から出てきたのは偶然ですが。

佐藤:その偶然を必然にすること、つまり近代欧米の普遍性を確立することこそ「無窮(=永久)の道義的実践」だという話になるんですよ。こうして帝国主義が正当化される。

中野:偶然を必然にするというのは、「普遍は個別の中にある、という西洋から生まれた思想が世界中で理解される」という意味でしょうか? そうであれば、それは、まったく問題ないじゃないですか。

佐藤:いえいえ、「近代欧米の個別性に宿った普遍性を、世界中が媚態を示して受け入れる」という意味です。現実世界の力関係を無視することはできない以上、「偶然の必然化」もグローバリズム的な解釈で受け止められることになるのです。

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