「ソクラテスの毒杯」から西洋哲学が始まった理由 グローバリズム批判は「高貴ないきがり」である

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佐藤:大谷選手も、アメリカで活躍するからこそ注目される。日本でプレーしていたら、ここまで騒がれるはずがありません。現にわが国の報道番組は、大谷選手の活躍となるや、たいがいスポーツコーナーのトップで取り上げます。それどころか政治や経済のニュースを差し置いて、番組全体のトップニュースとなることも珍しくない。しかるに自国のプロ野球はどうか。みごとに後回しではありませんか。

ユニバーサリズムの発想に立てば、グローバリズムが入り込む余地はないと考えるのが非現実的なのです。現実の社会において、文化の豊かさは「どれだけカネが動くか」という点と切り離すことができません。そしてカネは数字ですから、グローバルな通約可能性、すなわち普遍性を持っている。

古川さんは第2回の記事で、「近代日本の誤りは、西洋文化に含まれる抽象的な普遍性を、現実的な普遍性と取り違えたこと」と指摘されました。けれどもカネ、つまり貨幣は、普遍性に加えて、抽象性と現実性まで兼ね備えている。たんなる数字でありながら、世界を動かしているのですからね。

カネの前には、「抽象的な普遍性」と「現実的な普遍性」の区別が消滅してしまうのです。こうなると、両者を取り違えるという考え方自体が成り立たなくなる。やはり九鬼周造の議論は、狭義の哲学に視野を限定しないかぎり破綻を運命づけられていると言わねばなりません。

中野:個別でしか普遍が現れないのだけれど、佐藤さんがおっしゃったように、ユニバーサリズムをグローバリズムと誤解して、みんな金と数字と力のほうに流れていくと、個別が消えるだけではなく、個別の中の普遍も同時に消えてしまう。だからこそ、哲学者の九鬼周造が倫理を声高に問うているのだと思います。

佐藤:ならば大谷のプレーからも、いずれ個別性が消えてゆくのでは。ドジャーズの現在の監督デイブ・ロバーツは那覇生まれで、日本人を母に持っていますが、ベースボールに徹した采配をしているようです。ついでに事実上、実践しえない哲学をどこまで有効なものと評価すべきかは疑問ですね。

わかりあえないことをわかりあうという「諦念」

中野:政治的に有効かどうかと、正しいかどうかとは別問題です。政治的に支持は得られず敗北して排除されたが、排除された方の方が実は正しかったということは、当然ありえます。

中野 剛志(なかの たけし)/評論家。1971年、神奈川県生まれ。元・京都大学工学研究科大学院准教授。専門は政治経済思想。1996年、東京大学教養学部(国際関係論)卒業後、通商産業省(現・経済産業省)に入省。2000年よりエディンバラ大学大学院に留学し、政治思想を専攻。2001年に同大学院より優等修士号、2005年に博士号を取得。2003年、論文‘Theorising Economic Nationalism’ (Nations and Nationalism)でNations and Nationalism Prizeを受賞。主な著書に山本七平賞奨励賞を受賞した『日本思想史新論』(ちくま新書)、『TPP亡国論』(集英社新書)、『富国と強兵』(東洋経済新報社)、『小林秀雄の政治学』(文春新書)などがある(撮影:尾形文繁)

ところで、九鬼周造が通約可能性に最も遠い唯名論者だというのは、やや疑わしいと思いますね。特に「日本的性格について」の最後の部分は唯名論を徹底しているわけではないように感じます。

ただ、私は九鬼が間違っているとは思っていません。個別の中に普遍性があり、抽象的なレベルでは通約可能性があるけれど、現実のレベルでは絶対にわかり合えないという諦念が必要です。神を信じる気持ちは理解できても、イスラム教徒はキリスト教徒にはなれない。この宗教対立は絶対に消えないという現実的な諦めがあります。だから不断に努力はするけれど、結局は無理だという考え方です。

古川さんの解釈は正しくて、普遍的なメタレベルで通約可能だからといって、みんながわかり合えるわけではない。ただ、絶対にわかり合えないかというと、神というレベルで抽象化すれば、イスラム教、キリスト教、ユダヤ教にも共通点があり、わかり合えないけれど、お互いの存在を認め合って距離を置いて過ごすなど、幸せに共存することもできると思います。

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