「ソクラテスの毒杯」から西洋哲学が始まった理由 グローバリズム批判は「高貴ないきがり」である

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古川:「理解」はできるように、つまり「理屈ではわかる」ように書いているんですね。それが理性の役割であり学問の仕事であると九鬼は考えています。でも、ホントのところはお前らにはわからんよと、突き放されている感じもする。実際、『「いき」の構造』は、九鬼自身の「いき」の体験に基づいて、これは「いき」だ、これは「いき」ではないと断言されまくっているので、私のような無粋な人間は読んでもさっぱりわかりません(笑)。

佐藤:「いき」が認識ではなく、実践、体験の領域の問題だとすれば、「現実には有効性がなくても、認識としては正しい」などと弁護することはできません。そういうのは「いき」ではなく、「いきがる」と呼びます。

中野:実践をおろそかにして、認識だけでやれば間違った解釈が生まれるでしょう。しかし、実践でしか現れないものを言い表すのは難しいですね。哲学者はそういう面倒なことをやっているのです(笑)。

古川さんに少し補足的にお伺いしたいのが、エネルギーの法則を、イギリス人は実験から、ドイツ人は観察から、フランス人は特殊的なものに注目してエントロピー増大の法則を立てたってありましたよね。これに関しては、思いっきり普遍的で、通約可能なものを見つけていませんか。みんな、自然の法則を理解しているのではないかと。

「体験に基づいた認識」の重要性

古川:そういう普遍的な認識や共通理解そのものを否定しているわけではないんです。ただ、そこに至る道が違うということです。

九鬼という哲学者の面白いところは、一方では体験や実践の直接性に非常にこだわると同時に、他方では理性による論理的な分析や説明を徹底的にやるところです。体験はあくまで個別的なもので、わかり合えないけれど、だからこそ、それをできるかぎり言葉にして論理的に説明する。それが哲学だと彼は考えています。

哲学は体験そのものではなく、「体験に基づいた認識」であると彼は言います。認識は理性によるものであり、普遍性や相互理解に開かれています。しかし、その基盤になるのは、文化的な感覚を通じた個別的な体験である。だから、個別的な文化的感覚を最大限に活かすことによって、初めて真の普遍的・客観的な認識に近づくことができると考えるわけです。

:この例、面白いですよね。サイエンスにもナショナルな要素が大いにあるのではないかと。どこかで引用したくなります(笑)。

古川:数学者の岡潔も、数学には国民性が現れると言っていましたね。

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