「ソクラテスの毒杯」から西洋哲学が始まった理由 グローバリズム批判は「高貴ないきがり」である

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中野:ただ、九鬼の矛盾というわけではないですが、九鬼には文化主義的な傾向がやや強いという印象はあります。個別・普遍で理解できるレベルは抽象であり、本当は理解できないこともある。それはそうですが、しかし、これは同じ文化の中にあっても個人間で起きうる話です。日本人同士でも、理解できないことがあります。この議論の行きつくところは、自分の言っていることは誰にもわかってもらえない、俺は俺でしかないんだっていう悲しい結論に至るのではないでしょうか。

佐藤:当然、そうなりますね。あらゆる理解は幻想であることに耐えねばならない。

「いき」とは「不可能な生き方」だ

古川:私は博士論文で、「いき」というのは実は「不可能な生き方」なのだと論じました。あらゆる意味で普遍性や相互理解の可能性を否定してしまったら、正気を保てなくなってしまいます。実際、ある意味で「いき」のモデルだった九鬼のお母さんは、孤独に耐えられず心を病んでしまったわけですし。だから、お互いにわかり合えないけれど、どこか底のところではつながっているというふうに考えないと生きていけないし、共存もできない。

中野:そうか! 実存主義的な個の考え方って「いき」なのですね。だとしたら、「いき」は、西洋にもあるな(笑)。普遍のレベルで「いき」はヨーロッパやアメリカ、中国やインドにもある。ただ、具体のレベルになると一致しない。最初は「いき」の本質を輸出・輸入できると考えていたけど、よく考えると具体のレベルでは理解し合えない。抽象度を上げればわかったふりはできるけど、具体では無理だと九鬼も感じたんじゃないんですか。

古川 雄嗣(ふるかわ ゆうじ)/教育学者、北海道教育大学旭川校准教授。1978年、三重県生まれ。京都大学文学部および教育学部卒業。同大学大学院教育学研究科博士後期課程修了。博士(教育学)。専門は、教育哲学、道徳教育。著書に『偶然と運命――九鬼周造の倫理学』(ナカニシヤ出版、2015年)、『大人の道徳:西洋近代思想を問い直す』(東洋経済新報社、2018年)、共編著に『反「大学改革」論――若手からの問題提起』(ナカニシヤ出版、2017年)がある(写真:古川雄嗣)

古川:完全にわかり合えるのでも、完全にわかり合えないのでも、どちらであってもわかろうとする努力をしなくなってしまいます。わかり合えることとわかり合えないこととの「あわい」のようなところを、九鬼は大事にしたのだと思います。

中野:もっと言うと、「俺たちってわかり合えないね」ってことをわかり合う(笑)。

佐藤第2回の記事で紹介したピーター・ブルックの例がまさにそれですよ。バリ島の仮面を、現地の役者と同じ所作で使うことはできない。ただし所作が違っても、同じぐらい説得力のある形で使うことはできる。

中野:どこに違いの線があるかを明確にするということは、それ以外のところをわかり合っているということですね。「必然というのは偶然じゃないということを言っている」というのも同じことで、偶然と必然は別物じゃなく、偶然じゃないことが必然。九鬼はそういう議論を展開している。

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