あまりに突然の「妻との別れ」…御子誕生後の急変 「源氏物語」を角田光代の現代訳で読む・葵⑤

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「そうおっしゃいますが、どなたかわかりません。はっきり名乗りなさい」

と不承不承口にするが、光君の目には、葵の上はもうすっかり御息所としか見えず、ぞっとする。女房たちがすぐ近くにいるので、光君は気が気ではない。

声も少しおさまり、いくらか苦しみが和らいだのだろうかと、母宮が薬湯をそばに持ってきたとき、葵の上は周囲の人々に抱き起こされ、まもなく赤ん坊が生まれた。一同はこれ以上ないよろこびに湧いたが、憑坐(よりまし)に乗り移らせた物の怪たちは無事な出産を妬んで騒々しくわめきはじめるので、後産(あとざん)をみんなが心配した。言い尽くせないほどの願(がん)をたくさん立てたおかげか、何ごともなく後産もすんだ。比叡山(ひえいざん)の座主(ざす)や、だれそれという尊い僧侶たちは、得意顔で汗を拭いながら、ようやく退出していく。

多くの人の心を痛めつつ看病の日々が続いたその緊張も解けて、もうこうなったらだいじょうぶだろうとだれもが思っている。御修法(みずほう)などは、あらためてあたらしいものを加えてはじめるけれど、もの珍しい御子(みこ)の世話に嬉々としてかまけて、みながほっとしていた。桐壺院をはじめ、親王(みこ)たちも上達部(かんだちめ)たちも、ひとり残らず贈った産養(うぶやしない)(祝宴)の品々はじつに立派で、お祝いの夜ごとに見てみな大騒ぎをする。御子は男の子だったので、産養のあいだの儀式はいっそう豪華にはなやかに催された。

ますます平常心を失っていく

一方の御息所である。噂で流れてくる御子誕生の話が耳に入るにつけ、心穏やかではいられない。以前は葵の上は危篤だという噂だったのに、安産だったとは忌々しい、という思いがつい心をかすめる。御息所は自分が正気を失っていた時のことを思い返してみる。着物には、物の怪退散の祈禱で使われるはずの芥子(けし)の香が染みこんでいて、気味悪く思って髪を洗い着物を着替えたりしてみたが、芥子の香りは消えない。そんな自分を自分でも疎ましく感じるのだから、まして世間ではどんな噂をし、どんなふうに言い立てるのだろうと、だれにも言えず悩み苦しみ、ますます平常心を失っていくのである。

無事の出産に気持ちも落ち着くと、光君は、あの時の、異様な生霊の問わず語りを不気味な気持ちで思い出さずにはいられない。御息所の元を訪れないまま日にちがたっているのも心苦しく気の毒であるし、けれどまた親しく逢えば、どうなるのか、きっと嫌な思いをするだろう、それではあの人に申し訳ない、などとあれこれ思いめぐらせ、御息所には文を届けるに留めた。

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