あまりに突然の「妻との別れ」…御子誕生後の急変 「源氏物語」を角田光代の現代訳で読む・葵⑤

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「どうか祈禱を少しゆるめてください。大将に申し上げることがあります」と物の怪は訴える。

「やっぱり何かわけがあるのでしょう」と女房たちはささやき合って、光君を几帳(きちょう)の近くに招き入れた。

そのままこときれてしまいかねない様子なので、光君に遺言でもあるのだろうと、左大臣も母宮も少し下がった。僧侶たちは物の怪に言われた通り加持をいったん止め、低い声で法華経(ほけきょう)を読んでいるのが、たいそう尊く響く。光君は几帳の帷子(かたびら)を引き上げて、葵の上を見る。じつにうつくしく、おなかだけがひどくせり上がった姿で臥している。そんな女君の姿を、赤の他人が見たとしても、いったいどうしていいのか心が乱れることだろう。まして夫である光君が、別れるのも惜しく、悲しみに暮れるのは無理からぬことである。出産のための白い装束に、黒い髪が映えている。たっぷりと長い黒髪を結って枕に添えてある。気取りも取り繕いもしないその姿こそ、あえかにうつくしく見え、光君は、こんなにもきれいな人だったのかと胸打たれる。光君は葵の上の手を取り、

「あなたはひどいよ。私をつらい目に遭わせるんだね」と言い、後はもう何も言えなくなって泣き出してしまう。今までずっと気詰まりで近寄りがたいまなざしだった葵の上は、気だるく光君を見上げる。じっと見つめているその目から涙がこぼれる。それを見て、どうして光君が深い愛情を感じないことができようか。

葵の上があまりにも激しく泣くので、両親たちのいたわしい心情を察してか、また、夫である自分とこうして見つめ合うのもこれきりと心残りなのか、と考えて、光君は口を開く。

葵の上の口を借りて物の怪は言う

「何ごともそんなふうに深く思い詰めてはいけないよ。たいしたことはない。それにね、もし万が一のことがあったとしても、私たちはかならずあの世で逢うさだめになっているのだから、また逢える。大臣や母宮、前世からの深い因縁がある間柄は、生まれ変わってもつながりが切れることはないのだ。来世でかならず逢えるのだから、どうか安心してください」

「いいえ、違うのです」と、葵の上の口を借りて物の怪は言う。「私の身がたいそう苦しいものですから、少しご祈禱をゆるめてくださいとお願いしたいのです。こうしてここにやってこようなどと、まったく思っておりませんのに、思い悩む者のたましいは、なるほど体から抜け出してしまうものなのですね」となつかしそうに言い、

嘆(なげ)きわび空に乱るるわが魂(たま)を結びとどめよしたがひのつま
(嘆き苦しみ、体を抜け出して宙をさまよう私のたましいを、下前(したまえ)の褄(つま)を結んでつなぎ止めてください)

と言うその声も雰囲気も、葵の上と似ても似つかず、まったくの別人である。これはどうしたことかと、あれこれ思いめぐらせていた光君は、あっと叫びそうになる。その声はまさに御息所(みやすどころ)その人である。これまで、下々の人々がとかく噂するのを不快な思いで耳にして、口さがない者たちの戯言(ざれごと)だと無視してきたけれど、今、まさにまざまざと目の前に見ているではないか。世の中には確かにこうしたことが起きるものなのだと、光君は忌わしく思う。

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