「ガンダム」生みの親が語る日本エンタメ史の裏側 安彦良和氏が驚愕した才能、原作のアニメ化に思うこと

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安彦氏が高校時代にノートに描いた漫画作品(画像:『遙かなるタホ河の流れ』上巻より)

――それでも、「憧れの手塚治虫」の下で働けたのですよね。

そんな感動はまったくなかった。上京して写植の仕事を3カ月やったが、どうにもつまらない。そこで床にひっくり返って新聞の求人欄を見ていたら、たまたま虫プロの養成所で人を募集しているのを見つけ、「写植よりはいいかもしれない」と応募した。今思えば、実に失礼な話だ。

虫プロの本社は手塚さんの自宅の敷地内にあって、僕が配属になったスタジオはそこから1駅離れたところ。物理的には手塚さんの近くにいたわけだが、遠い存在だった。僕はアニメーターだから。アニメに詳しくなかった僕でも、工場の工員のような存在、という知識くらいはあった。

結局、虫プロは僕が入社3年目の1973年に倒産することになったが、そのとき社内で挨拶をする手塚さんをホールの隅っこから見て「あ、手塚さんだ。動いてる」と思うような距離感だった。

僕自身がよくわからずに就職したくらいだから、世間でもアニメの仕事は認知されていなくて、「今なにやってんの?」と聞かれるのが本当に嫌だった。

「アニメって、何?」「テレビでやってる漫画」「あー、あれね。『巨人の星』とかやってるんだ?」「いや、あれはメジャーなやつで、俺がやってるのはもっと目立たないの」と、説明をしなくてはならない。学生運動を一緒にやった仲間から、「それやってどうすんの? 世の中変えられるの?」と言われたときは、グサリときた。

当初、ロボットアニメは低く見られていた

――アニメの仕事にやりがいを感じるようになったのはいつ頃からですか。

フリーになって、(絵コンテなどを描く)演出の仕事をやりだしてからだろう。虫プロ倒産後、そこから分岐した創映社(現バンダイナムコホールディングスのアニメ制作スタジオ・サンライズの前身)でフリーとして働いた。原作が買えない貧乏な会社だったということもあり、オリジナルアニメの企画書を出すことができた。

企画書が通りやすいジャンルが、ロボットアニメだった。玩具会社に「商品になる」と思ってもらえたら、スポンサー枠を半分以上持ってくれる。サンライズは最終的にアニメ制作会社の中で業界2位までいったが、ロボットアニメというジャンル自体は低く見られていた。同じアニメでも、「カルピス名作アニメ劇場」などでやるのがいいアニメ、というような価値観があった。

その流れが変わる転機となったのが、「宇宙戦艦ヤマト」(1974年〜)だろう。子どものためのアニメから、別のターゲットが見えてきた。ハイティーン層だ。

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