ノアさんについては、バイクに乗せられ拉致される中で助けを求めて叫ぶ様子が世界で報じられ、ハマスの蛮行の象徴として記憶している人も多いだろう。母親のリオラさんは進行するがんと戦いながら、車椅子に乗って娘の解放を訴え続けていた。
この作戦は「アルノン作戦」(当初は「夏の種作戦」)と名づけられていた。IDFとシャバク(イスラエル総保安庁)、ヤマム(イスラエル国境警察の対テロ特殊部隊)などあらゆる治安機関が連携し、約1カ月かけて準備された。人質4人はトンネルではなく、ガザ市民の住宅に拘束されていた。
ハマスはガザ市民を「人間の盾」としていることは周知の事実だが、人質も同様で、IDFの攻撃によって犠牲になった人質がいることも判明している。生還したノアさんの証言によると、自身もIDFのミサイル攻撃によって命の危険を感じたことがあったという。
戦時内閣からガンツ氏が脱退
6月8日の午前11時、作戦が開始された。ハマスは、IDFがヌセイラット難民キャンプの一角を包囲している情報をつかむと攻撃を開始し、激しい銃撃戦となった。
救出部隊は、建物の1階にいたノアさんを救出した後、3階の3人を救い出した。11時15分、「ダイヤモンドはわれわれの手に」と伝えられた。人質を保護したという報告である。
救出自体は短時間で完了したが、数百人の武装テロリストが周りを取り囲み、救出部隊を執拗に攻撃し続け、人質を運搬するためのトラックが爆破された。それで保護した人質を海岸へと導き、最終的にIDF空軍のヘリでイスラエルに連れ戻した。11時50分のことである。
テロリストとの激しい銃撃戦により、ヤマムの指揮官1人が犠牲になった。ハマス傘下のガザ保健省の発表では、パレスチナ人274人が死亡し、698人が負傷したとされている。
人質奪還のニュースにイスラエル中が沸き立った日の翌6月9日、戦時内閣に参加していたベニー・ガンツが辞任を発表した。ガンツは戦争勃発の5日後に戦時内閣に加わったが、つねにネタニヤフ首相との不協和音が報じられていた。ガンツはこの日、65歳の誕生日を迎えた。
「戦争が勃発した後、私たちは政治的パートナーシップからではなく、運命共同体として1つになる必要性を感じ、緊急内閣に加わった。けれどもこの内閣は、政治的な判断に重きを置き、重要な戦略的決定を先延ばしにしている」
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