筆者はかねがね、「国民の知る権利」の名の下に、犯罪加害者の家族のプライバシーまで暴く週刊誌に怒りを覚えてきました。書かれた側が「死やそれに近い状況」に追いやられる記事が後を絶ちませんが、ほとんどの場合、書いた週刊誌は何の罪にも問われません。ネットでの匿名のあおりや脅しは、それ以前の卑劣な行為で、私は非難する価値も認めないほど軽蔑しています。このような方たちは、加害者の家族に「死んで詫びてもらって満足」しているのでしょうか、それとも将来を奪って溜飲を下げた気分なのでしょうか。
1989年の宮崎勤の幼女殺害事件では、執拗なメディア取材を受ける宮崎勤の家族に、「お前たちも死ね」「殺してやる」という憎悪に満ちた手紙が、段ボール箱一杯ほど届いたそうです(鈴木伸元『加害者家族』より)。宮崎勤は、手首に特殊な障害を持って生まれました。それがイジメられる原因になったり、彼が殻に閉じこもる遠因になったと言われていますし、彼は発達障害と診断されています(この病名の人は罪を犯しやすいとか、犯行を正当化していませんので、念のため)。しかしこの病気や障害は親の責任ではありません。
犯罪者とその親族は、当然、分けて考えられるべきですが、往々にして加害者の家族も被害者になります。宮崎勤の父親は家を売り払って被害者への賠償金とし、川に飛び込んで自殺しました。この一族の場合、父親から見て長女・次女、父親の弟たちとその子ども、母親からみてその兄の子どもたちが、皆、職を辞したり結婚を破断にしたりしています。執拗なメディアの追いかけ取材が原因でした。
犯罪加害者と家族は別だという考えが、私たちの社会の常識として、メディアも含めてもっと徹底されるべきではないでしょうか。
元少年A宅と私の家は紙一重
私は元少年A(以下A)のご両親のような立場の人に、後ろから石を投げるような言動は、毛頭持ち合わせていません。先のコラムでは、「死んでお詫びする勇気もない私たちをお許しください」という両親の手記からの言葉を、最初に紹介しました。Aのご両親は被害者の方たちとも、Aとその弟たちとも正面から向き合い、贖罪(しょくざい)の日々を過ごしていくほうを選択されたことを、紹介したかったからでした。
そして私がいちばん筆足らずだったと反省する点は、Aは特殊な心の病気だったのに、その母親のせいで愛情不足を感じて暴走が始まり、また母親にAの暴走を止めることができたはずだとの印象を与えかねない書き方だったことです。私など、子どもたちにもっとひどい体罰を加えたことは数えきれませんし、いつもイライラしていた点では、誰にも負けないほどです。にもかかわらず、我が家では誰もそのような“こころの病気”にかかっていませんでしたので、母親のAへの態度だけが犯罪の遠因になったとは思っていません。
私は十数年前、このご両親の手記を読んだとき、到底凶悪犯罪を起こすような荒れた家庭ではない普通の家庭像だっただけに、Aの両親に同情しました。これらの状況は、今後も少年Aのような事件が、どこの家庭にも起こり得る問題であることを、示唆しています。
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