とはいえ、公任にわだかまりはなかったようだ。道長邸の改築を伴う祝宴に参加したり、一緒に紅葉を観にいったりして、その後も交流を深めている。
一方の道長も、かつては「その顔を踏んでやる」とまでいった公任を重用。公任の優れた芸術的才能を高く評価しながら、権大納言に昇進させている。
ちなみに、四納言のなかで、最も長生きしたのは公任で、76歳まで生きた。
道長に常に寄り添った藤原斉信
自ら関白になることは諦めて、道長を支えた公任だったが、1歳年下の親しい友人だった藤原斉信には負けたくなかったようだ。斉信に出世で抜かれると、一時期は参内を辞めてしまっている。
そんな斉信は、太政大臣の藤原為光(ためみつ)の次男として、道長と同じく名門・藤原北家に生まれた。頭脳明晰で、立ち居振る舞いも洗練されていたとされる斉信。清少納言は『枕草子』でこう評している。
「物語に登場するような、麗しい貴公子のようだった」
長徳2(996)年には参議に任命され、道長が政権を握ってしばらくすると、権中納言へと昇進を果たす。だが、そのときに兄の藤原誠信を抜いてしまったことで、一悶着あったらしい。
『大鏡』によると、誠信は弟の斉信に「今回は昇進を希望する申請をするな。私が昇進を希望するから」となんとも情けない命令をしたらしい。斉信がそれに従うと、道長から「昇進を希望しないのか」と言われたので、斉信は「兄が申請するのですから、どうして私が希望を申し上げることができましょうか」と返答。すると、道長は次のように伝えている。
「誠信が中納言になることはないだろう。斉信が辞退するなら、ほかの人に話がいくことになる」
誠信では、とても中納言は務まらなかったのだろう。それならばと、斉信は態度を一転させて昇進を希望し、中納言になっている。これに怒ったのが誠信で「斉信と道長に、私は阻まれたぞ!」と騒ぎ、食事もとらなくなった。除目から7日目に亡くなったという。情けない兄だが、優秀な弟を持つ苦しさもあったのかもしれない。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら