不遇の時代を過ごすなかで、俊賢の推挙によって蔵人頭へと抜擢されると、持ち前の実直さが評価されて、出世の道が開けた。「四納言」の一人として道長を支えたばかりか、道長の長男・藤原頼通が摂政となってからも、行成は側近として活躍する。
躍進のきっかけをくれた俊賢への感謝を、行成はいつまでも忘れることはなかった。位階で俊賢を超えたあとも、決して上座には座らなかったという。
「書の達人」としても知られた行成。彼が書き残した日記『権記(ごんき)』は当時の人々の生活を知る貴重な史料となっている。
そんな行成の活躍を思うと、俊賢の眼は確かだったのだろう。いろんな権力者への気配りを行いながら、情勢を見極めるなかで、人の才を見抜く力が培われたのではないだろうか。
芸術の才能あふれる藤原公任
「四納言」には、道長のかつてのライバルもいた。藤原公任と藤原斉信である。
公任は、関白の藤原頼忠を父に、醍醐天皇の孫の厳子を母に持つ、将来を約束されたサラブレッドだった。
そのうえ、天元5(982)年に姉の藤原遵子が円融天皇の皇后となったため、公任は皇后の弟となり、その3年後の寛和元(985)年には、正四位下となった。
ただ血筋が良かっただけではなく、和歌・漢詩・管弦において優れた才能を発揮。その有能ぶりに、道長の父の兼家が「どうしてあんなに優れているのだろうか。うらやましい限りだ」と嘆いた逸話が有名である。
兼家が「私の子どもたちが、その影さえ踏むことができないのが、残念だ」と嘆くと、ほかの兄弟がうつむくなか、「影を踏むことはできないでしょうが、その面を踏んでやりましょう」と強気に出たのが、道長であった。
だが、それだけ有望視された公任も、兼家が企てた「寛和の変」によって、花山天皇が出家し、一条天皇が即位すると状況が一変する。父の藤原頼忠は関白を辞任。姉の藤原遵子も皇子を産めないまま、皇太后の地位には、兼家の娘で一条天皇の生母となる藤原詮子が就くことになった。父も姉も失脚した公任は、道長に追い抜かれることになる。
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