また、父の高明は、平安中期の儀式書である『西宮記』を書き残している。そのため、俊賢も儀式のことには詳しかった。文才もあったために重宝されたのだろう。長徳元(995)年には参議、長和6(1017)年には権大納言に昇進する。
道隆の没後は、長男・伊周が後継者として有力視されるも政争に敗れて、道長が政務を牛耳っていく。そんななか、俊賢は道隆一族とのつながりを保ち続けながら、妹の明子が道長と結婚していることもあり、道長にも協力している。
源俊賢が推薦!「書の達人」藤原行成
誰が出世競争に勝ち残ってもいいように、慎重かつ、巧みに立ち振る舞う俊賢の姿を見て、藤原実資はこう非難している。
「貪欲、謀略その聞こえ高き人」(貪欲謀略其聞共高之人也)
権力者におもねることを嫌った実資らしい手厳しさだが、どうも道長の長女・彰子が一条天皇の女御となり入内するときに、一悶着あったらしい。
道長は娘の入内に際して、和歌を集めた高さ4尺の屏風を持たせようと考えた。藤原公任、藤原高遠、藤原斉信、源俊賢などが和歌を献上するなか、実資だけは道長からの依頼を断っている。
このときに公卿らに和歌を依頼して回ったのが、自身も和歌を献上した、俊賢だった。どれだけ催促しても「大臣の命で歌を作るなど前代未聞」と拒否し続けた実資のガンコさを、俊賢は批判。実資のほうも「寄らば大樹の陰」のスタンスを隠さない俊賢に、失望したという。
だが、もともとは実資もその実力を評価しており、俊賢はただの策略家ではなかった。自身の昇進によって、蔵人頭を辞任するときのことである。一条天皇から後任の人選について相談されたとき、俊賢は24歳の藤原行成を、後任の蔵人頭として推挙。 『大鏡』によると、行成が昇殿を許されない地下人だったので、一条天皇は蔵人頭への抜擢をためらったものの、 俊賢が強く推したらしい。
行成は、右少将・藤原義孝の長男として生まれた。祖父は右大臣の藤原伊尹と、血筋に恵まれたが、早くに父や祖父が亡くなり、一族は没落。それでも学識に優れた行成は、母方の祖父・源保光(やすみつ)の庇護を受けながら、高い教養を身につけていく。
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