その後は、比叡山や熊野などに赴いて、花山院は仏道修行に励んだ。比叡山延暦寺の戒壇院では、「悟りの位に進んだ」とされる儀式「授戒灌頂」を経て法皇となっている。
熊野に行くときには、藤原実資を呼び出して「馬を貸してくれ」と頼んだのだとか。実資は、花山院の要求に応じて馬を献上したと、日記の『小右記』に記している。
そもそも、かつて花山院が出家へと心が傾いたのは、最愛の女御だった忯子を失い、深く失望したことがきっかけだった。そんな心のスキマを利用して、道兼が出家を持ちかけることとなった。
今や法皇となった花山院は、忯子を弔いながら、修行に励んだのだろう。熊野を出発してからは、宝印のある三十三の観音霊場を巡礼する修行を行ったとも言われている。
女好きは相変わらずで事件に巻き込まれる
そんななか、花山院は28歳のときに、とんでもない事件に巻き込まれる。
故・藤原為光の家で、藤原伊周と弟の隆家と遭遇すると、従者同士が乱闘する騒ぎになり、花山院と一緒にいた童子2人が殺害されて、首を持ち去られたというのだ。乱闘の最中には、従者より花山院に矢が射られたともいうから、ただ事ではない。
どうも伊周が自分の好いた女性を花山院にとられたと勘違いし、弟の隆家とともに、法皇を襲撃することになったらしい。このとき、花山院のお目当ては藤原忯子の妹・四の君だった。ところが、伊周は「自分が好きな三の君のもとに花山院が通っている」と勘違いし、弟の隆家に相談。凶行に及ぶことになった。
伊周はこの「長徳の変」と呼ばれる事件をきっかけに失脚。ライバルが勝手に脱落したことで、道長の栄華が決定づけられることになった。
伊周もまたしょうもないことをしたものだが、出家してもなお、女好きの花山院の姿には「楽しそうでよかった」と、ほっとさせられるのは私だけであろうか。
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