花山天皇の生涯でいちばんのハイライトは何といっても、藤原道兼に騙されて出家し、退位に追い込まれる場面だろう。明治時代には、 画家の月岡芳年が「花山寺の月」という浮世絵でその姿を描くなど、後世に語り継がれることとなった。
「花山天皇の出家計画」を立てて、道兼に指示したのは、父の藤原兼家だったとされている。兼家からすれば、花山天皇さえ退位してくれれば、孫で皇太子の懐仁親王を天皇に即位させることができる。
陰謀を実行した結果、兼家の思惑通り、花山天皇は出家して退位。懐仁親王が一条天皇として即位する。外戚となった兼家は摂政となり、権勢をふるい、息子である道隆、道兼、そして道長の地位を引き上げていく。
つまり、ドラマにするならば、花山天皇の物語は退位劇がクライマックスであり、その後はフェイドアウトしてもおかしくはなかった。
しかし、花山天皇は出家して退位したときに、まだ19歳であり、その後も人生は続く。あるときには意外なかたちで、再び注目されることにもなった。出家後の花山天皇について、見てみよう。
絶望のどん底から修行の道へ
「私とともに出家しましょう」
そんな道兼の言葉を信じて、花山天皇は元慶寺(京都市山科区)にて、出家することになった。
だが、花山天皇が剃髪するやいなや、道兼は態度を急変。「いったん家に帰って、父に出家前の姿を見せて、事情を説明してきます。必ず戻ってきますから」と言って退出してしまった。このときに花山天皇は陰謀に気づき、「私を騙したな」と言って泣いたが、あとの祭りである。
しばらくして、追い打ちをかけるように、花山天皇の同腹の長姉が23歳の若さで亡くなった。花山天皇の姉弟はすべて、この世から去ってしまったことになる。
まさに人生のどん底のなか、心の支えを求めたのだろう。出家した花山院は、寛和2(986)年7月22日、まさに一条天皇の即位式が行われる日に出発して、書写山圓教寺(兵庫県姫路市)へ。性空上人に「結縁」、つまり、仏道に縁を結び、そのもとで研鑽を積んでいる。
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