『ファイト!』の歌詞には、多くの「私」が出てくる。以下の4人はおそらく全員、女性だろう。
・駅の階段で突き飛ばされた子供を助けもせず逃げた私
・周囲に反対されて上京できず、東京行きの切符を涙で濡らした私
・力ずくで男の思うままにされて、こんなことなら男に生まれればよかったと思っている私
しかし、そんな「弱者」としての彼女たちが、周囲に笑われながらも闘い続け、傷ついて、やせこけて、まるで鮭のように、北海道の川をのぼっていく。
――♪ファイト! 闘う君の唄を 闘わない奴等が笑うだろう ファイト! 冷たい水の中を ふるえながらのぼってゆけ
そして何とか産卵。次の世代の小魚が、ベーリング海やアラスカ湾の方向にぐんぐん向かっていく。
――♪ああ 小魚たちの群れきらきらと 海の中の国境を越えてゆく 諦めという名の鎖を 身をよじってほどいてゆく
この生命のサイクルを、繰り返していくことによって、少しずつ「弱者」が携える権利が整っていく――。
朝からヘビーでもストレートもいい。そんな『ファイト!』のような世界を突き付ける朝ドラになってほしいと期待する。ちなみに伊藤沙莉は、こうも述べていた。
――でも考えてみれば、昔から続いていた価値観が一瞬で変わるなんて絶対なくて、多くの女性が「それはおかしい!」と声を上げて闘い続けてくれたからこそ、今の自分も「おかしい!」と気付くことができるんだと思います。それがどれだけありがたいことか(前掲書)
主題歌の歌詞に出てくる「100年先」
しかし主題歌は、中島みゆきではなく米津玄師『さよーならまたいつか!』だ(こちらもいい曲)。歌詞には「100年先」が何度も出てくる――「♪さよなら100年先でまた会いましょう」「♪100年先も憶えているかな」「♪100年先のあなたに会いたい」。
モデルの三淵嘉子が生まれたのは1914年。100年以上も前の話だ。100年以上も先の日本は、「女性活躍社会」の言葉が空虚に響き渡り、「選択的夫婦別姓」(「選択的」なのだから、さっさと導入すればいいと個人的には思っている)すらもなかなか進まない。
「弱者」としての女性を描くドラマが、100年以上先の社会で、まだまだ突出したリアリティを持つことを、果たして三淵嘉子は想像しただろうか。
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