43歳で死去「道長の兄」道隆のまさかすぎる死因 死因は疫病ではなかった、後継ぐ道兼も病死

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そんな政治の状況に不満を持ったのが、藤原不比等の子どもたちである。本来は父から譲り受けるはずの実権を奪ったのが長屋王であり、どうにかして取り返さなければならないと考えたらしい。

長男の武智麻呂(むちまろ)、次男の房前(ふささき)、三男の宇合(うまかい)、四男の麻呂(まろ)ら「藤原四兄弟」は、長屋王を追い落とすため、陰謀を実行する。

四兄弟は「長屋王に謀反の疑いがあり」と聖武天皇に密告。それを信じた聖武天皇によって、長屋王の邸宅は兵に包囲される。誤解を解くことはかなわず、長屋王は妻子ともども自害に追い込まれることとなった。

天然痘が流行したのは、まさに藤原四兄弟が実権を奪ったときのことだった。天然痘によって、藤原四兄弟の全員が死亡することになる。

感染症にもかかわらず、隔離しなかったことが原因だと思われる。だが、当時は理由がわからないため、「長屋王の祟り」と恐れられることになったのである。

新しい太政官の筆頭として、元皇族の橘諸兄が就任。以降、藤原氏は停滞することとなった。

疫病が追い風となって出世した道長

天然痘によって死亡した「藤原四兄弟」だが、その後、この4人を先祖として、それぞれの家が発展する。

武智麻呂の子孫が南家、房前の子孫が北家、宇合の子孫が式家、麻呂の子孫が京家として続いていく。このうちの北家に生まれたのが、道長である。

父の兼家のもと、5男として生まれた道長は当初、出世する見込みが希薄だった。妻の倫子との結婚話も、最初は父で左大臣の源雅信から拒否されたほどである。父の兼家の死後、案の定、長男の道隆が後を継ぐことになった。

ところが、天然痘と思われる疫病が全国的に拡大。猛威をふるうなか、道隆が亡くなり、さらにそのあとをついだ弟の道兼も死亡する。兼家と正妻格との間に生まれたのは、道隆・道兼・道長だったが、そのうちの2人の兄が死亡したため、道長のもとに政権が転がってくることとなった。

かつて藤原氏を衰退させた疫病が、道長に限っては、プラスに働いたともいえるだろう。つくづく強運の持ち主である。

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