そんな祈りのお陰もあってか、倫子は激しい痛みに悩まされることもなく、女児を出産することとなった。『栄花物語』には、次のようにある。
「この御一家は、はじめて女生れたまふをかならず后がねといみじきことに思したれば、大殿よりも御よろこびたびたび聞えさせたまふ」
まだ生まれたばかりだが、「将来の后に」と期待して育てられた。それが、藤原彰子である。
イベントに藤原実資が現れず物議をかもす
正暦元(990)年12月には、3歳になった彰子の「着袴の儀」(ちゃっこのぎ)が行われた。「着袴の儀」とは、天皇から贈られた袴を初めて着る儀式のことで、現在の「七五三」の源流となっている。
政治的にも重要なイベントだったが、『小右記』を残したことで知られる藤原実資は、この「着袴の儀」を欠席。どうも連絡に行き違いがあったらしい。翌日に「雅信や道長が不快感を持っていた」と聞き、驚いて謝罪に行ったという。
だが、前月の11月には、実資はこんな日記を書いている。左大臣とは、源雅信のことである。
「今日、 左大臣が審議される事が有った。その告げが有ったとはいっても、昨夜の深酔いの残った気分が堪え難く、参ることができなかった」
(「今日、左府、定め申さるる事等有り。其の告げ有りと雖も、去ぬる夜の淵酔の余気、堪へ難く、参入することを得ず」)
なんと二日酔いで、公卿が行う審議に参加できなかったというのだ。このとき実資は34歳である。いい年をして、何をやっているんだ……これでは「着袴の儀」の欠席で不審に思われたのも無理はないだろう。
その後、時は過ぎて長保元(999)年、彰子は12歳になると、裳着を行って入内するが、このときも、実資は道長から不興を買いかねない行動をとっている。
というのも、彰子の入内にあたって、道長は和歌を集めた高さ4尺の屏風を作り、彰子に持たせようと考えたらしい。道長の日記に「四尺屛風和歌令人々読」とある。
屏風絵は人気絵師の飛鳥部常則(あすかべのつねのり)、屏風歌を書き込むのは名書家の藤原行成(ゆきなり)という豪華な布陣だ。歌人も選りすぐりで、藤原公任、藤原高遠、藤原斉信、源俊賢などが和歌を献上することとなった。「詠み人知らず」というかたちで、花山法皇の和歌まで加わっている。
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