その後は、道隆の弟で、右大臣だった道兼が代わって関白となる。花山天皇を出家までさせた労が報われたかに見えたが、数日後に病死。「7日関白」に終わった。
道兼の死によって、道隆の長男である伊周と、道隆の弟である道長が、後継者争いを繰り広げる。強敵に見えた伊周だったが、長徳2(996)年の「長徳の変」によって、自滅している。
目まぐるしく変わる情勢に道長の一手
道長からすれば、自分より前を走っていた兄の道隆と道兼、そして甥の伊周が勝手に転んで、気づけば先頭を走っていた……。長保元(999)年、12歳になった彰子が入内したのは、まさにそんな状態のときだった。豪華な屏風和歌にこだわったのも、自身の権勢を打ち出すためにほかならなかった。
とはいえ、まだまだ先はわからない。彰子の入内とちょうど同時期に、中宮の定子が、長保元(999)年11月7日に、一条天皇の第一皇子となる敦康親王を出産する。天皇は大喜びしたというが、道長はその日の日記で「彰子に女御宣旨が下った」と娘のことを書くだけで、第一皇子の誕生については触れていない。
目まぐるしく変わる政局のなか、道長が放った次の一手――。それが、「定子を皇后とし、彰子を中宮にする」という、亡き兄の道隆をも上回る強引な人事だった。
【参考文献】
山本利達校注『新潮日本古典集成〈新装版〉 紫式部日記 紫式部集』(新潮社)
倉本一宏編『現代語訳 小右記』(吉川弘文館)
今井源衛『紫式部』(吉川弘文館)
倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社現代新書)
関幸彦『藤原道長と紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』 (朝日新書)
繁田信一『殴り合う貴族たち』(柏書房)
服藤早苗 『藤原彰子』(吉川弘文館)
朧谷寿『藤原彰子 天下第一の母』(ミネルヴァ書房)
真山知幸『偉人名言迷言事典』(笠間書院)
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