そんななか、実資だけは献上しなかった。今度は二日酔いでもなければ、連絡の行き違いでもなかった。道長から再三、催促されても「大臣の命で歌を作るなど前代未聞」と拒否し続けたという。
権力者からすれば、何とも扱いづらい実資。だが、道長はそれだからこそ、実資のことを信用したようだ。実務能力に長けた実資の協力を得ながら、道長は政権を運営していく。のちに、道長の嫡男である藤原頼通も実資を頼ることとなった。
短かった兄・道隆の絶頂
そんなふうに、彰子が3歳で「着袴の儀」を迎えてから(990年)、12歳で入内に至るまで(999年)の10年足らずで、政治の情勢は大きく変わった。
彰子の着袴の年に、一条天皇が11歳で元服すると、道長の兄で摂政の藤原道隆は娘の定子を15歳で入内させて、女御としている。まもなくして父の兼家が亡くなると、道隆は娘の定子を「中宮」にすると言い出した。
当時、天皇の祖母である「太皇太后」、天皇の母である「皇太后」、そして天皇の妻である「皇后」が「中宮」と呼ばれており、このときすでに3人の中宮がいた。加えて、定子が中宮になれば、4人も皇后がいることになる。
前代未聞のことで、公卿の多くは「ありえない」と反対。実資ももちろん、「皇后4人の例は今まで聞いたことがない」(「皇后四人の例、往古聞かざる事也」)と批判している。
それにもかかわらず、道隆は強権を発動して、定子を中宮にしている。今や亡き父の兼家のやり方にならって、一条天皇とわが子の間に子を産ませて、その子を天皇にすることで、外祖父として、権力を掌握しようと目論んだのだ。
その一方で、道隆は、長男の伊周をどんどん引き上げていき、21歳の若さで内大臣にまで出世させている。これも父の兼家のやり方を踏襲したもので、自分にしてくれたことを我が子にも行い、権力基盤を確かなものにしようとしたのだ。
ところが、それから5年後の長徳元(995)年に、病によって道隆は命を落とす。ちょうど「赤斑瘡(あかもがさ)」という今でいう「はしか」が大流行していた時期だったが、道隆の場合は、飲み過ぎによる糖尿病が原因だったとされている。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら