「都を離れた紫式部」越前国で過ごした1年の心情 雪が降る光景を見ても、心はつねに都にあった
「磯の浜に、鶴の声々に鳴くを」聞いた式部は、「磯がくれおなじ心に田鶴ぞ鳴く汝が思ひ出づる人や誰ぞも」とも詠んでいます。「浜辺の岩隠れに鶴がしきりに鳴いている。その切ない声。私の気持ちと同じではないか。お前は誰を思い出して鳴いているの」というような意味です。
この歌も、式部が越前に向かう際のものだと考えられています。旅が平穏であったならば、まだ式部の心は安らいだかもしれませんが、旅とはそうしたときばかりではありません。
「夕立しぬべしとて、空の曇りてひらめくに」(夕立が来そうだというが、早くも空が曇り、稲妻が走る)との詞書が付いた「かき曇り夕立つ波の荒ければ浮きたる舟ぞしづ心なき」との歌からは、荒い波に揺れる舟と私は一体、どうなるのだろう、という式部の心細い感情を読み取ることができます。
式部が後に執筆する『源氏物語』のなかには、玉鬘(光源氏の親友、頭中将の娘)が肥後の監という土豪に求婚され、断り切れず、舟で逃げ出すシーンが描かれていますが、式部が越前に行くときの乗船体験も、執筆の際にかなり役に立ったのではないかと推測されます。
そのときは悪い体験だと感じても、後から振り返ってみれば、それは貴重で得がたい経験だったということもあります。
塩津山での印象に残る体験
さて、式部たちは、琵琶湖西岸を北上し、湖北の塩津に上陸しました。そして塩津山を越えて、敦賀に出ます。式部は塩津山でも、印象に残る体験をしたようです。
「塩津山といふ道のいとしげきを、賤の男のあやしきさまどもして『なほからき道なりや』といふを聞きて」(塩津山を越えるとき、その道はとても草深く、下賤の男たちが見すぼらしい服を着て、式部らの乗っている輿などを担ぎながら、つらい道だなと言い合うのを聞いて)、式部は「知りぬらむ往来にならす塩津山世に経る道はからきものぞと」と歌に詠んでいます。
「お前たちもわかったでしょう。いつも往来し慣れている塩津山は、名前のとおりつらい山道だということを。世渡りの道はつらいものだということを」という意味です。
この頃になると、式部の心にも少し余裕が出てきたのでしょうか。高波に舟が揺れているときと比べたら、今風に言うと、ギャグを考える余裕が出てきたように思うのです。身分の低い男たちが言い合っている「からき」(つらい)という言葉を聞いて、塩とかけているのですから。
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