つい先日この東洋経済オンラインに寄稿された、埼玉大学名誉教授の伊藤修氏による「解剖MMT」なる連載も、やはり同様であった。
経済学者によるMMT批判の多くは、新古典派経済学に依拠する、いわゆる主流派経済学者によるものである。
だが、筆者の知る限り、代表的な非主流派であるマルクス経済学者の多くもMMTに対して相当に否定的であり、『資本論と社会主義、そして現代』という共著がある伊藤氏もまた、そうした1人なのかもしれない。
本稿では、伊藤氏のMMT批判に対する反論は一部にとどめ、「理論構造の根本的な違い」というより大局的な観点から、主流派・非主流派を問わず多くの経済学者がMMTを否定する背景を論じてみたい。
なぜなら、MMTをめぐる個別の論争の中身や当否を理解してもらう上でも、まずはそうした背景を明らかにすることが有益と考えられるからである。
商品貨幣論の欠陥を克服するMMT/表券主義
主流派やマルクス派は、「貨幣とは、金や銀のようなそれ自体に素材価値のある商品を、交換手段として経済取引に導入したものである」という商品貨幣論に依拠している。貨幣が導入される前は物々交換経済があり、貨幣も元々は市場で交換される商品の1つであったというわけだ。
だが、商品貨幣論は、現代の日本における日本銀行券(紙幣)のように、素材価値が乏しく貴金属などとの交換も約束されていない法定不換貨幣(fiat money)が通用している現実をうまく説明できない。『マンキュー マクロ経済学』のような標準的な主流派の教科書でも、法定不換貨幣が通用している理由については、自らの理論的不備を自覚しているかのような、いかにも歯切れの悪い説明がなされている。
また、アメリカの人類学者デヴィッド・グレーバーが『負債論』で指摘しているように、商品貨幣論が想定するような物々交換経済はそもそも存在していなかったというのが、人類学的事実である。
なお、『負債論』では、伊藤氏が商品貨幣の事例として挙げている第二次世界大戦時の捕虜収容所における「タバコ貨幣」も取り上げられているものの、すでに貨幣の使用に親しんでいる人々が何らかの理由(特に、国民経済の崩壊)で貨幣を入手できなくなった時のやむを得ないやり繰りの手段とされている。実際、そうした現象は所詮一時的なものに過ぎず、貨幣制度の定着を説明する論理であるはずの商品貨幣論の裏付けとするのは相当な無理があるだろう。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら