メイの話からは常に、「普通」の高校生にはない悩みが見え隠れした。
奨学金の申請書類をすべて自分でそろえなければならない。生活保護費から日々の支出を考えなければならない。介護施設に移ってリハビリをする父親のケアをどうするか。今の家で一人で暮らし続けられるのか――。
17歳が独りで抱えるには重すぎる悩みが、メイの頭の中には常にあった。
だから、うちに来て、3人で食卓を囲んでいる瞬間は、ただ心を開いて重荷を下ろし、自由に思いを打ち明けられる時間にしてほしかった。それは「普通」の高校生なら意識もしないような、当たり前の日常だったはずだ。
互いに楽しいひととき
メイにはそんな「普通」の時間が必要なんじゃないか、という控えめな臆測が、私にはあった。その臆測は、私自身の経験からきている。
私は母親と妹弟3人とのシングルマザー家庭に育った。そして私が20歳の冬、母親はがんで亡くなった。葬儀の手配、役所の手続き、銀行口座の整理、学費免除の申請……、悲嘆に暮れる暇もないほど、やるべき事が目の前に山積した。
生活が急変するなかで支えになったのは、幼いころから通っていたプロテスタント教会のコミュニティだった。特に中学生のころから世話になってきた牧師夫妻は、私たちきょうだいを親身になって支えてくれた。
夫妻の家で、私はしばしば夕食をごちそうになった。その食卓は私にとって、胸の中で膨らむ不安を言葉にし、ただ話を聞いてもらうことで、自分は独りではないと実感できる、かけがえのない「普通」の時間だった。
もちろんメイと私の置かれた状況は全く違うし、メイが本当にそれを求めていたのかもわからない。ただ、自分にできることは、それくらいしかなかった。「メイに何かしてあげたい」という意気込みが私にはあった。
けれど、そんな私の意気込みは、いつの間にか流れて消えていた。
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