初期の主な排出者は事業者で、石材屋が灯籠等をトラックいっぱいに積んで持ってきたり、電器屋が蛍光灯の束を持ち込んで置いて帰ったりした。
この蛍光灯は割れていなかったため災害廃棄物なのか疑わしい。蛍光灯は資源としてリサイクルルートに乗せる必要があるため、清掃職員らは仮置場での引き取りに難色を示した。
しかし電器屋は「電話した際には何でも持ってきてよいと言われた」の一点張りで、仮置場に置いていってしまった。結果、後日、清掃職員がその蛍光灯をリサイクル業者に持っていく手間が生じてしまった。
一方、倒れた食器棚を搬入したのを契機に「何でも受け入れてもらえる」と勘違いし、これまでしまい込んできた多くの退蔵品を繰り返し持ち込む者もいた。
「被災した」と主張する住民が布団、毛布、タンスなどを、ここぞとばかりに排出したり、スノーボードやスキー板まで搬入したりする者もいた。
清掃職員は被災したことをおもんぱかり、可能な限り被災者に寄り添う対応をしようと心掛けている。それなのに一部の住民の中には、その気持ちにかこつけて、エゴを通そうとする者もいる。
非常時の振る舞いは、人間のきたなさ、いやらしさ、みにくさを浮かび上がらせる。
「避難所」のごみ収集は…?
一方、地震発生後、初期の奥能登地域の被災地支援として、金沢市は輪島市の避難所のごみ収集に清掃車2台(清掃職員4人)と、穴水町の仮置場の運営に4人を派遣した。
ほかの自治体に収集を依頼するにあたっては、収集箇所を示した地図の提供が必要不可欠だが、金沢市の環境局へは避難所一覧の情報が提供されたのみだった。
そのため、支援に赴く清掃職員が現地の地理に不慣れながらも通行可能な道路を調査し、2日がかりで地図の作成と収集ルートを考案し輪島市へと向かった。
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