江戸幕府が唯一公認した「人気の賭け事」その正体 碁や将棋、双六といった勝負事での賭けは厳禁
『守貞謾稿』では驚くべき事例も紹介されている。抽選会当日、寺社奉行所の役人は検使のため会場の寺社に赴くことになっていたが、その検使役人の奉公人が、門前などに筵を敷いて、富突の見物客を相手に影富を行ったという。
影富を取り締まる側が御免富の会場で影富を開帳していては、その根絶など夢のまた夢であった。天保改革の嵐が吹き荒れた天保13年(1842)に、影富が便乗した御免富の制度は廃止される。結局のところ、御免富の廃止まで影富は根絶できなかった。
最後までなくならなかった違法賭博
しかし、御免富と関係なく行われていた「隠富」は続いた。隠富とは、参加者から集めた賭け金を元手とした賭け事だ。幕府や藩の許可を得たものではない以上、違法賭博となる。
影富と同じく御禁制とされたが、次のような方法により幕府や藩の目をくらましていた。
鎌倉時代からの金融システムに、頼母子講(無尽講ともいう)というものがある。
講への参加者たちが一定の掛け金を拠出し続けた上で、一定の期日ごとに抽選や入札を行い、その当選者が所定の金額を順次受け取るという、互助的な金融組合であった。
全員が所定の金額を受け取るまで掛け金を拠出するルールが採用されていたが、この頼母子講のシステムが悪用される。
表向きは何々講という名目で参加者から掛け金を集め、それを元手に札を発行して抽選日に当選者と当選金を決めたのだ。この頼母子講のシステムを隠れ蓑に、隠富と称された賭博は続いたのである。
記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
印刷ページの表示はログインが必要です。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
無料会員登録はこちら
ログインはこちら