編纂者が、「紫式部は有名人だし、たしか道長公に雇われていたはず。それに艶(つや)っぽい歌も残っているし、『妾』というかたちで入れておこうか」などと考えたかもしれません。
西暦1376年に成立したといわれる『尊卑分脈』ですが、源氏、平氏、藤原氏などの主要な系図集なので、たいそう貴重な史料と見なされています。けれど間違いも多く、とくに伝聞の記述については、かなり疑わしいようです。
角田文衛氏も、「一瞥(いちべつ)したところでは、なんの不思議もない系図であるけれども、よく検討してみると(中略)、錯簡(さっかん)とも言うべき重大な誤写がそこに認められる」(『紫式部とその時代』角川書店)としています。
また、『源氏物語の謎』(三省堂選書)の著者・伊井春樹氏も、その辺のことを語り、「……これだけの記述から先を読み取るのは不可能と言うほかはない」と結論づけていますし、例の『尊卑分脈』に関しても、ただの歌のやりとりからの「類推による」もので、取るに足らない、と見なしています。
健康状態が良くなかった道長
もう1つ、これまた、今井氏の『人物叢書 紫式部』に詳しく書かれていることですが、道長の健康状態はあまり良くなかった、という事実を付け加えておきます。
藤原道長といえば、つぎの歌が有名です。
この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば
「この世は自分のものと思っている」などと歌に残した道長は、権力欲が強く、妻と愛人が何人もいましたので、精力がみなぎっている人物に思えますが、じつは意外と病弱だったみたいです。
長徳(ちょうとく)4(998)年、道長が33歳のときに大病を患い、死を覚悟したのか、帝に出家を願いでたことがありました。このときは無事に治りましたが、その後も、たびたび体調を崩すことがあったのです。
とくに道長が紫式部と歌のやりとりをした、といわれる寛弘5年の夏は、病気のために参内(さんだい)もしていません。
また、道長が著わした『御堂関白記』によれば、風病(ふうびょう:風邪など)の記述も多く、50歳のときには「糖尿病」と疑われるような症状も出ていたようです。
以上のように見てきますと、「紫式部と道長の間に、恋愛関係はなかった」。それどころか、相聞歌(そうもんか)めいた歌の交換も、ふたりのものではなかったのではないか、とすら思われます。
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