紫式部さえ「出世の道具」に使った道長の悲しい性 権力をほしいままにした彼が「求めたもの」とは

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道長としては、紫式部を宮中に入れたことが、「これほどに大きな成果を得られる」とは思っていなかったでしょう。そのくらい『源氏物語』の人気は、群を抜いていたのです。

一条帝は、物語の最新版を読むために、道長の娘・彰子(しょうし)の御殿へ足繁く通うようになりました。

ちなみに彰子中宮が住む藤壺(ふじつぼ)御殿は、帝の住まい、清涼殿(せいりょうでん)のすぐ近くでした。彰子が女御(にょうご)として入内(じゅだい)したときに、道長は政治力を使って、そのように手配したのです。

道長は広大な荘園を所有し、経済力(財力)の面でも、他の貴族を圧倒していました。彰子の住み暮らす藤壺御殿を華麗に飾り立て、高価で上質な絵巻物や書物をふんだんに収集できたのも、その財力の賜物(たまもの)だったのです。

さらに、彰子に仕える女房として、知性あふれる女性をあつめようとしました。紫式部、しかり。和泉(いずみ)式部や赤染衛門(あかぞめえもん)などの有名な歌人も、彰子付きの女房として出仕させたのです。

『彰子サロン』をつくりたかった

おそらく道長は、亡くなった定子(ていし)皇后の御殿を意識していたのでしょう。清少納言をはじめ、すぐれた女流歌人や文人をよび寄せた定子の御殿(登華殿:とうかでん)は、一条天皇のお気に入りだったのです。

1回目の記事で私は「定子サロン」と言いましたが、それに負けない御殿、「『彰子サロン』を、道長はつくりたかったのだ」と思います。

そんな道長の計略のなかで、紫式部は「いちばんの功労者」でした。宮中に出仕した当初、容易にその雰囲気になじめず、すぐに彼女は里(実家)に帰ってしまう。しかも何ヵ月も休んでいたのですから、道長は相当にやきもきしたはずです。

しかし、紫式部はどうにか再出仕したあと、宮中での暮らしや仕事にも慣れ、再度、物語の執筆を開始します。それを見て道長は、ほっとしました。そして、出来あがった物語をさっそく帝に差しだすと、たいそうご満悦で、道長は、「自分の狙いが間違っていなかった」と確信します。

道長は紫式部の才能を高く評価し、貴重な紙や上等な硯(すずり)、墨(すみ)などをあたえました。

『源氏物語』は全体としては長篇小説ですが、五十余の短篇に分かれています。1つの短篇が仕上がるごとに、道長はそれを製本させて、表紙を付けたのち、帝に献上したようです。

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