『栄花物語』では、師輔のことを「一苦しき二」という言葉で評している。これは「上席である兄の実頼が心苦しくなるほど優れた次席の者」ということを意味している。秀でた師輔の才を感じさせるとともに、藤原家における兄弟争いの熾烈さが、この表現からはよく伝わってくる。
師輔が病に伏して、天徳4(960)年に51歳で病死すると、長男の伊尹が頭角を現す。伊尹は天禄元(970)年に右大臣になると、さらに円融天皇の摂政となり、翌年には、正二位・太政大臣にまで上ったが、48歳で亡くなってしまう。
長男の急死によって、3男の兼家は、2男の兼通と後継者を巡って争うことになるが、敗北。円融天皇との関係が良好だった兼通が、後を継いで関白となっている。
その結果、兄の兼通からライバル視された兼家は、大納言から治部卿に降格させられて、長く不遇の時代を過ごす。
道長が生まれたときも、兼家は38歳にして従四位下左京大夫というぱっとしない地位に甘んじており、まだ公卿になっていなかった。
父の遅い出世が道長を栄華に導いた
ところが、兄の兼通が病死したことによって、状況はがらりと変わる。冷遇されていた兼家が出世し始め、ついには摂政にまで上り詰めたのである。
ようやく出世した父は、これまでの恨みを晴らすかのように、次々とわが子を要職に引っ張り上げていく。兄たちをはじめに、5男の道長も権中納言に昇進することとなった。
この時点で、道長は大きく出世の道が開かれることとなる。なぜならば、道長の兄にあたる藤原道隆や道兼らは、成人を迎えた頃には、まだ父の兼家にとって不遇の時期だった。
そこから、父が出世を果たして、地位が引き上げられることになるが、すでに兄たちはそれなりの年になっている。そんななか、道長はまだ23歳の若さで、権中納言になることができた。出世の階段を上るのに、記録的な好スタートである。父の遅い出世が、5男の立場である道長には、かえって有利に働くことになった。
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